「身だしなみをお整え……って、え?」
門番の口から発された一言に、あずきはぽかんと立ち尽くしていた。作業着のような革の服の上から、エプロンドレスをつけている女性は、そんなあずきに臆した風もなく、淡々と言う。
「汚いので」
「お、おお、ナチュラルに口が悪いな」
「自分の姿をご覧ください。土埃にまみれ、かさついた服。汗と汚れにまみれ、あせもができている肌。錬金術の工房に不純物を持ち込むおつもりですか?」
ぐうの音も出ない。
しかし、あずきに身を清めることはできなかった。何故なら、今あずきが持っているのは火の国の通貨、ヒノクニ。ここは土の国であり、通貨はツチノクニとなる。この国で流通する金を持っていないあずきは、風呂を借りることすらできないのである。
門番は無一文なあずきたちを見て、少しだけ目を見張った。相変わらず口は真一文字を結んでいるが。
「……今、おいくらほどお持ちですか」
門番の女性に問われて、あずきはジャラリと革袋から貨幣を取り出した。残りは六十ヒノクニだ。貨幣の数を数えた門番は、目を閉じてしばらく考え事をしていたが、やがてため息とともにあずきをまっすぐ見るのだった。
「それでは汚れた衣服を替えることもできません……仕方ありませんね、私の家にお越しください。本日は我が家に泊まっていただき、明日の朝、再びこちらへ来ていただきます」
「え、それはありがたいけど……なんでそんなに良くしてくれるの?」
「エーアトベーベン様のためです」
きっぱりと告げる門番。その頬はわずかに朱に染まり、伏し目がちになった瞳が潤んでいるのが見える。
ははあ、と声を上げたのは銀秘命だった。
「あんた、そのエーアトベーベンっていうのに惚れてるわけね?」
「……な、何をおっしゃいますか!」
「分かるのよ。恋する乙女の顔っていうのは万国共通なのね、うんうん」
あたしも千年前は初々しい顔してたもの、とにこやかに語るヒメさん。
ヒメさんを見上げ、じっとりとした目つきになったあずきが口を開く。
「ヒメさん……本当は何歳なわけ?」
「え、に、二百歳……」
「本当は何歳?」
「永遠の二百歳!」
下らない言い合いに、門番の女性がぱちくりと瞬きを繰り返していた。
久方ぶりの風呂を堪能し、体の汚れをすっかり落としたあずきは、門番の女性、ゾフィーから絹の上服と革のズボンを手渡され、それに着替えていた。今まであずきが着ていた服は、ゾフィーが大きな桶に入れて、洗ってくれるそうだ。
家の外には水車が取り付けられていた。水車が回ると革紐で繋がった歯車も回り、その歯車と連動しているファンが洗い桶の中で回転することで、洗濯ができるという仕組みのようである。
原始的な洗濯機を目の前にして、あずきは思わず呟いていた。
「火の国にはこんなのなかったよ」
あせもに効くらしい塗り薬を手渡しながら、ゾフィーはやや誇らしげに返す。
「錬金術が発展している我が国はほかの国の一歩先を行っておりますので」
「へえー……」
「エーアトベーベン様が発明なさった道具によって、我々の暮らしは豊かになりました。私はあの方を師と仰ぎ、工房にお仕えしているのです」
ゾフィーが何やら饒舌になってきた。ヒメさんは頬を赤らめている彼女を見て、ああ、とため息をつく。何事かとヒメさんを見上げるあずきに、ヒメさんは小さな声で言うのだった。
「これ、一晩中エーアトベーベンって人の良いところを語り明かされるパターンよ……恋する乙女に詳しいの、あたし」
ヒメさんの予感は的中した。
ゾフィーのエーアトベーベン様トークは終わる気配を見せず、夕食を終え、やがて辺りがうっすら明るくなってきて、あずきが眠気に負けそうになった頃、ようやく一区切りついたのだった。