「ヒトツメ」
「ヒトヅマ」
「ヒトシオ」
暗闇の中、怪異たちの声が延々と響く。体の内側を激しく揺さぶられ続け、僕の意識は今にも遠のきそうだった。
「ヒトコト」
「ヒトトセ」
「ヒトハダ」
「ヒトトセ!」
合間合間に、正しい名前で呼ばれていることに、ようやく気づいた。
怪異がついに、僕の本名に行き着いたのだろうか。
声がした方向へ体を向けると、無数に蠢く異形の腕の中、二本だけ、なんの変哲も無い「人」の腕が見えた。一本は白くて細い腕だ。もう一本は、子供のような、大人のような、成長途中にある風にも見える腕だった。
「ヒトリミ」
胃袋を揉みしだかれたような不快感が僕を襲う。
「ヒトトセ、ヒトトセ!」
僕を正しく呼ぶその声の元へ行きたい。
「ヒトデ」
こめかみを、ズン、とした頭痛が襲いかかった。
足取りが重い。息がうまくできない。
「ヒトトセさん!」
ああ、二本の腕が呼んでいる。
異形の腕たちが僕の服を、首を、髪を掴んで、力強く引っ張ってくる。苦しい。苦しい。けれど、僕は。僕は。
人の腕を、必死で掴んだ。
一気に視界が開けた。
吐き気も頭痛も息苦しさも、嘘のようになくなっていた。
深く呼吸をする。空気が肺を満たした。
僕の手が、温かい何かを握っているのに気づく。視線を落として確認すれば、それは間違いなく、人の手だった。
「ヒトトセ……」
「ヒトトセさん」
手の持ち主たちが僕を抱きしめてくれている。あの世課の事務員さんと、そして、半田さんだ。
パラパラと何かが落ちてくる音を、僕の耳が拾う。冷たい雫が頬や鼻先に当たり、落ちてきたのは雨なのだと分かった。
「半田さん……僕は一体……」
助けたかった。
怪物に叩きのめされ、それでも人間である僕を逃がそうと立ち向かってくれていた半田さんを。
決死の覚悟で、幽霊柘榴を口にして。
そうして……。
そこでようやく、気がついた。
僕の手の甲に、青い鱗が光っていることに。
ざっと降り出した雨の中、雷獣の姿の半田さんが、僕の手を両手で握り、僕と目を合わせることなく呟いた。
「お帰り、無事で何よりだよ」
「僕は……半人に?」
「当たり前じゃないか、ここをどこだと思ってるんだ。ヒトトセは……君は無数にある怪異の腕の中から、きちんと選んで来れたんだ……半田たちの手を、選んで握ったんだ」
あの世課の事務員さんを見る。安堵したような表情で、何度も何度も頷いている。僕は、いつか半田さんに言われたことを思い出していた。
どの半人になるかは完全にランダム。
そうか、あの無数の腕の中からどれを選ぶかで、何の半人になるかが決まるんだ。そうして僕は、選んだのだ。
僕を正しく呼んでくれた、この人たちを。