話は広まる
川は思いの外深かった。私の腰ほどはある。そうじゃなくちゃ河童が泳ぐことなんてできないのだろうけれど。
川の中央の、窪みになっている場所に、ボロボロの木札は引っかかっていた。
「匿名殿ぉ、木札はござりましたか」
「あった。変な文字が書いてあります」
水から引き上げる。少しヌルッとしている。藻が生えている木札は、しかしそれでも効力を発揮しているようである。
私の前に涅槃さんが川に足を入れたのだが、その瞬間に電気でも流れたかのように飛び上がり、痛! いった! と叫びながら川原へ避難したのだ。
だから木札の影響を受けない私がびしょ濡れになっているというわけだ。
河童たちは喜んで、しきりに礼を言ってきた。祖母が投げ込んだ破魔の札が原因だというのに、まるで私を頼もしい用心棒かのように扱い、褒めそやしてくる。あんなに険悪だった雰囲気は雲散霧消だ。
ぬるついた木札一枚を手に入れて、私は微妙な気持ちで帰路につくのだった。
町内の皆さんにヒソヒソと何かを言われながら、速攻でシャワーを浴びた。
翌朝のことだ。
玄関前に、大量のきゅうりが置かれていたのは。
おそらく河童たちの仕業だ。過去に私を溺れさせた詫びか、破魔の札を川から取り除いた礼か……どちらもだろう。それを見つけたのは涅槃さんで、涅槃さんが外に出たことで町内会長の奥さんが甲高い悲鳴を上げていた。
「しょっぱ! やはりあの女人殺す!」
塩まみれの涅槃さんが戻ってくる。どうやって青筋が浮かんでいるのだろう。血管もないのに。
善次郎さんにツナ缶を開けていると、不機嫌そうな涅槃さんがきゅうりを台所に置いて、そして一通の手紙を持って居間にやって来る。
「匿名殿宛てでござるよ」
「……私、手紙をもらうような交友関係ないんですけど」
「超嘆かわしい」
「やかましいわ」
引ったくるように茶封筒を受け取って、宛名を見た。住所は書かれておらず、希望匿名殿、と私の名前が筆で書かれているだけだ。直接持ってきたらしい。
光に透かして、怪しい物が入っているわけではないと確認した後、思い切って封を切った。ざらついた、上質な紙の感触がした。
希望(のぞみ)匿名(とくな)殿
希望栄(さかえ)殿が亡くなったと河童より聞かされ、一筆したためることと相成りました。どうかお読みいただきたい。
「河童が言いふらしたようだな」
「言いふらしたら妖怪が押し寄せて来ちゃうのに」
善次郎さんの言葉に眉間にシワを寄せ、私が返す。たった半日のことで手紙が来たということは、それなりに急ぎの用なのだろう。
先を読み進めると、かなり切羽詰まった様子なのだと分かった。
手紙の主は、落ち武者の霊だった。
双子池をご存知だろうか。丸い池が二つ並んでいるのでその名がつきました。
池と池の間に、祠があります。元は水神を祀り、池を清く保つ役割を持っておりましたが、栄殿はそこに我らの殿の霊を封じてしまったのです。
殿は確かに陰気では御座いましたが、決して悪い御方様ではないのです。
我らはひどく狼狽致しました。まだ幼き頃の匿名殿を追いかけ回し、祠へ連れ去り、封印を解かせようと必死で御座いました。
どうか、どうか我らの殿を解放してはくださりませんか。
「……もしかしてこれ、行く流れになってます?」
「行かなければ怪異たちに狙われ続けるだろう。早めに何とかした方がいい」
「ゆこう、ゆこう、そういうことに」
「涅槃さん夢枕獏禁止で」
私のトラウマその二から直々にもらった手紙を手に、子供の頃に学校への近道として使っていた雑木林の中へ、久しぶりに足を踏み入れることにしたのだった。
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