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三日前の死神

「いい加減、私を食べなさい!」
 自称人魚に追われた僕は、うっすら汚れた繁華街の路地裏に飛び込んだ。室外機が唸り、定食屋のダクトが焼き魚の煙を吐き出している。
 マンホールを踏んで広い通りに出ようとした、その時だ。
「お待ちなさい!」
 マンホールの蓋を外して自称人魚が飛び出してきたのは。
「嘘だろう、下水道から出てきた!」
「ちゃんとお読みなさい! あまみずって書いてあるじゃない!」
 マンホールの蓋を持ちながら走ってくる自称人魚。いやいや、蓋は閉めてくれ、危ない。そしてこの自称人魚は「走る」。
 そう、走る足がある。
「半魚人を食べる気はない、帰ってくれ!」
「人魚!」
 上半身が魚で下半身が人の足(鱗まみれである)なら、それは半魚人と呼ばれるべきではないのか。短距離走選手を連想させる見事なフォームで追いかけてくる「自称人魚」が、僕に飛びかからんと地を蹴り、宙に躍り出た。
「私の肉をお食べなさい! 不老不死にしてあげるわ! 余命一ヶ月の柴崎くん!」
 降ってくる半魚人。目の前には僕の逃走を阻むフェンス。僕は。僕は……。

 Uターンをした。

「あげばぶ!」
 顔から地面に突っ込んだのだろう、謎の声を上げてもんどりうつ半魚人の姿がある。僕は必死に走り、路地裏を抜けた。

 僕は一ヶ月後に命を散らす。既に決まったことだ。これは病気ではない。
 横断歩道を歩いていたお婆さんに飲酒運転の自家用車が猛スピードで迫ってきていた。僕がお婆さんを突き飛ばして代わりに轢かれることで、彼女を延命させたのだ。
 だが、それがいけなかった。
「あれ、予定にない寿命の延長と短縮が行われましたね? なあに、これ?」
 轢かれた僕を見下ろす男がいた。
 背広を着ている男だった。おそらく男なのだろう。声が成人男性だったのだから。首から上は歩行者用の信号機だったが。
 血みどろになり息も絶え絶えな僕を見下ろし、彼は困ったように告げる。
「君ですかあ、寿命の操作を行ったのは」
 あのお婆さんはここで車に轢かれて亡くなる運命だったのだそうだ。
「困りますう、なんとしてでもあのご婦人をお迎えしないといけなかったのに、代わりに死んでしまうなんて」
 歩行者用信号機の頭をした男は、そこでポンと手を打ち、既に目が見えなくなっていた僕に向かって明るい声を出したのだった。
「じゃあ、こうしましょう!」

 僕を蘇らせる。ただし一ヶ月だけ。
 お婆さんを助けた僕へのボーナスタイムだそうで、一ヶ月の間、僕は命に干渉する権利を手に入れてしまったのだった。生かすも生かさないも僕次第。もちろん何もせず一ヶ月を終えてもいい。
 それを聞いて僕は早速命に干渉した。
 無為に過ごしてただ息を引き取るだけというのは避けたい。死にがいがない。
 川の浅瀬で横たわる大きな魚に手をかざし、本当に命に干渉できるのかを確かめることにした。死にかけの巨大な魚一匹を助けてもなんの意味もないだろうけど、干渉する権利を持っているのだ、濫用したくもなるというもの。
「体が楽になったわ」
 その魚に手足が生えていて喋るとは思ってもみなかったが。
 どうして死にかけの自分を助けることができたのかと詰め寄ってくる半魚人に根負けした僕が、歩行者用信号機の男の話をしたのは仕方のないことだ。
 そうして追われた。
 人魚の肉を食べれば不老不死になる。死の運命から逃れられるのだと。
「私、人魚のダーリン」
「オスなのかメスなのかわからないな」
「性別なんてどうでもいいの。あなたは死にかけの命を助ける善人よ。一ヶ月後に亡くなるなんて、あってはならないわ」
 善人。果たしてそうだろうか。僕は僕の身勝手で「生きて欲しい」と相手の命に干渉したに過ぎない。生かすことそれすなわち善なのか。いまいち分からない。
「だから私の肉を食べて」
「魚人の肉を?」
「人魚よ。巷のイメージとはやや違うけど」
「大幅に違うわ」
「魚と人がくっついた見た目をしてるんだから人魚でいいじゃないの」
「くっつく順番が違うんだよ。あんたのそれは魚人と言うんだよ」
 路地裏に向かって叫ぶ僕のことを訝しげに眺める人々がいる。ご迷惑をおかけします。
 僕は轢かれて命を散らしてしまった。それを覆すことなんてできない。一ヶ月のボーナスタイムの後に再び死を迎えるのも本当は怖いが、だからといって効果があるか分からない魚じ……人魚の肉を食べる気になどなれない。
 僕の死は決定事項なのだ。
 不老不死で上書きして捻じ曲げていいとは思えなかった。

 僕は木に登って降りられなくなった子供を助けるため、木によじ登った。子供を抱きかかえたところでバランスを崩して落ちてしまったが、一ヶ月後までは死なないのか無傷だった。子供の転落死を防ぐことに成功した。
 続いて歩きスマホで車道にふらりと出てしまった男子高校生の袖を引いて歩道に戻した。
 自称人魚には追いかけられ続けた。
「柴崎くん! 私を食べなさい! 美味しいわよ、ね、鯉こくがおススメ!」
「鯉だったのかあんた! たしかに特徴的なヒゲが生えてる!」
 逃げるついでに坂道を走り出したベビーカーを押さえ、母親の元へ走っていった。お礼の声のドップラー効果。鯉が追ってくる。
 鯉からの逃走劇は一週間続いた。残り三週間で僕は死ぬ。死にたくない。けど仕方のないことだ。生と死に揺れる僕を救いたいのか何なのか、一週間前と変わらぬスピードで鯉の人魚は駆けてくる。
 餅を喉に詰まらせた老人を抱きかかえ、横隔膜あたりに衝撃を与えて吐き出させ、僕は走り出した。鯉が迫る。
「柴崎さん、延命の通り魔みたいですねえ」
 呑気な声が隣から聞こえた。ちらりと右隣を見ると、首から上が歩行者用信号機の背広男が軽快に走っている。ちかちかと青信号が点滅していた。挨拶なのか?
「あの魚から逃げる先逃げる先に命の危機を迎えた方々がいらっしゃるんだよ! どうなってるんだ!」
「柴崎さんは人がいい。助けられそうな人を手当たり次第に助けていく。一ヶ月の間にどれだけ助けられるかを我々死神一同、固唾を呑んで見守っておりましたよお」
「死神だったのか、あんた」
「ほかに何に見えます?」
「信号機」
「柴崎くん、誰よその男! そいつ、あなたの何なのよ!」
 鯉が叫ぶ。

 ジャングルジムから転落した幼児を、スライディングでキャッチした二週間目。
 相変わらずダーリンは僕を追いかけ回す。
「あんたの肉を食べたら不老不死になるっていうなら、ほかの何かに食べさせて証明してみてくれよ」
「そんなの無理よ」
「は?」
 プロレスの睨み合いのように距離を取りつつ会話。
「不老不死って、永遠に生き続けるってことよ。柴崎くんはあと二週間で死んじゃうじゃない。不老不死の結果を見届けることはできないわ」
 たしかに。
「でも安心して。私は人魚に違いないと思われるから」
「揺らいでるな」
 鯉の魚人が僕に詰め寄る。僕はその分距離を取る。謎の手押し相撲が始まった。

 風で飛んできた植木鉢が、女性の頭上に迫るのを、女性を突き飛ばして助けた三週間目。
 歩行者用信号機の男は、青信号を忙しなくちかちかと点滅させて僕を眺めていた。あれは挨拶ではない。残りの寿命を知らせているのだ。
 点滅の間隔が狭い。なにせあと一週間だ。
「柴崎くん!」
 ダーリンは諦めない。

 車道に飛び出した三歳児を抱きかかえて止めた。残り三日。顔面蒼白の母親が駆けてくる。
 信号機男のちかちかが早くなっている。
 僕の体に異常はないが、残り三日でこの世とさよならをすると思うと、緊張感が襲ってきた。
「んーまっ」
 と、そこに鯉からの生臭いディープキス。
 思わず殴ってしまった。
 何をするんだ突然。ゴクリと何かを飲み込んでしまった僕は怒りに震え……そして気づく。

 ゴクリ?

「私の頬肉を特別にあげたわよ、柴崎くん」
 なんという事だ。無理やり食べさせられてしまった。鯉の魚人の頬肉を。なんというか泥臭い。さすが鯉だ。言っている場合じゃない。
 信号機男のほうを見た。
 青信号は点滅しなくなっていた。死神を自称していた信号機男は、両方の肩をすくめて僕を見ている。
「新たな死神の誕生ですねえ」
「どういうことだ?」
 信号機頭の男は赤信号になり、ダーリンを見据えた。怒っているのだろうか。
「柴崎さんの寿命はもう減りません」
「本当に不老不死に?」
「はい」
「死ななくなってしまったのです。行き場もないでしょう。ならば死神として雇い、丸く収めるほかありません」
 それは、丸く収まっているのだろうか?
 死なない人間は化け物扱いをされて、この世で生きていくにはつらすぎると知らされて、ダーリンはうろたえていた。僕を助けるつもりだったんだものな。
「ね、ねえ、柴崎くん……私の生き肝を食べれば不老不死は解除されるわよ」
「いらないよ生臭い」
 信号機男が「研修中」と書かれた腕章を僕の腕に巻きつける。顔を青白くして倒れた老人の気道を確保して救急車を呼んでから、ダーリンを連れて「死神派遣会社、イノチトリ」に向かうことにしたのだった。

 驚くべきは会社のネーミングセンス。
 そして。
 ダーリンが本当に人魚であったことだ。