さよなら記憶力
何でもメモをする男がいた。
彼は何をしていてもメモをしていた。覚えていられないのだという。
自分の記憶力に絶対の自信がない男だった。
彼はポストを見ては「ポスト」とメモし、犬を見ては「トイプードル」とメモをする。
そして一人の女性を見てメモをしようとして……ばらばらとページをめくりだした。
以前にメモをした事がある女性だったのだろう。
「奇麗」
「教養がある」
「優しい」
そんな言葉が並んでいる。
「同級生の中田さん」
その文字を目で追い、彼はもう一度彼女を見た。
彼女と目が合って、思考が止まる。彼女……中田さんは、メモをする癖を持つ男ににこりと笑いかけて手を振ってきた。
「私のこと、覚えてる?」
静かな声で尋ねられた彼は、首を激しく縦に振った。
「中田エミリさん、僕と同い年の」
そう答えて、同じ講義に出席していたこともある、と続けると、中田エミリは嬉しそうに笑った。
「それもメモしてたの?」
「い、いや、これは、僕が、勝手に思い出したことで……」
「じゃあ自力で覚えててくれたんだ? ありがとう」
中田エミリは記憶力の悪い男、外堀ハジメににこりと笑い、近づいていく。
「ハジメ君ってさ」
「う、うん?」
「興味があるものは自力で覚えてること、多いよね?」
私のことも興味あるの? と言外に尋ねられ、外堀ハジメは真っ赤になって黙り込んでしまった。
それを見て、中田エミリはくすぐったそうに笑っていた。
雪と梅の花が同時に見られた季節の出来事だった。