親愛なる隣人
押入れが私の部屋だった。
何か親の機嫌を損ねると押入れに投げ込まれたし、来客があると押入れにしまわれたので、すっかり定位置として認識していた。
深夜三時。父が酔っ払って帰宅した。随分と不機嫌そうな父は、私の部屋を目指して、ドスンドスンと足音を立てる。
私は思わず押入れに飛び込んだ。
ドカン、と扉が開く音がする。ろれつの回っていない怒鳴り声が聞こえる。部屋に誰もいないことが癪だったらしい。父は私の名前を大声で呼んだ。
不意に父が黙り込んだ。
押入れの存在に気づいたのだ。
何かあるとすぐに私を押入れに投げ込んでいたことを思い出し、私が自主的に入ったと勘付いたのだ。
足音がこちらに近づいてくる。押入れが開いたら父の平手が飛んでくるだろう。私は身を縮ませて息を殺した。
ガタン。とふすまに手がかかる音がした。これまでだ。諦めた私の前で、ふすまが乱暴に揺れる。
それだけだった。
開かない。
父がどう力を込めても開かない。ふすまはガタガタと揺れるだけだ。
ならば反対側を開けてやろう、と思ったらしい。回り込む足音と、再びガタガタと揺れるふすま。しかし、やはり開かない。私は呆然としていた。
私は何もしていない。ただ三角座りで事態を見守っているだけだ。
「おまえうんらあんにゃだら!」
のような怒鳴り声を上げて、父がふすまを蹴りつけてきた。
押入れのふすまはびくともしなかった。
酔いが覚めてきたのか、父が捨て台詞を口にして私の部屋から出ていった。乱暴に閉められる扉の音。
はて、押入れとはこんなにも丈夫だったかしらと不思議に思う私のうなじを、冷たい何かがそろりと這う。
指のようだった。
冷たい指は私の頭を鷲掴み、撫で回す。
私ひとりしかいないはずの押入れで、知らない誰かに撫でられながら、私はその日、そのまま眠った。不思議と恐ろしくはなかった。
そんな子供の頃の出来事を思い出しながら、独り立ちを明日に控えた私は押入れを覗き込む。服や本などを持っていくためである。
押入れの奥の奥。引っ張り出した箱の中。
肘から指先までのマネキンのパーツがごろりと入っているのを見つけた私は、なんだか、どうしようもない懐かしさを感じ、マネキンの指先をそっと撫でたのだった。
相変わらず冷たかった。