最初は声だった。それは違和感も兆しも無く突然消えた。おはようと口を動かしたが何も聞こえなかった。聞き慣れた、当たり前だった自分の声がその瞬間わからなくなった。
千鶴はいつも以上に話すようになった。僕の見える範囲に居ることが増えていった。声が出せないこんな喉なんて、首から切り落としてしまいたい。ぎりぎりと爪が食い込む皮膚が痛いのかそれを止める君を見るのが痛いのか。見たくなくてきつく目を閉ざした。
そんな悲痛な願いなど叶わなくてもよかった。次は視力が無くなっていた。見えず、手探りで己を確かめる。感触で眼があることはわかった。だが見えない。瞼の筋肉が衰えて閉じたままなのだろうか。しかし、啜り泣く声すら殺した千鶴の声が耳に届き、ああ、見えないんだと実感した。まっくらだ。まっくらで君の涙を見ることは無くなった。けれど笑顔も見えなくなってしまった。存在を確認できるものはあとどれだけあるのだらろう。
聴力も消えた。耳鳴りが鈍くなった音とも呼びづらいものしか"きこえない"。僕のてのひらに指を伝わせて一文字ずつ会話している千鶴。きっとこれからは一日中、ずっと、こんなことをさせえしまうのだろう。さっさと死んだ方が君の為にもなるんじゃないだろうか。そんなことを考えてしまうくらいだ。そして、既に僕には食欲どころか味覚さえないのだから。
この手が離れたら僕が誰かすら、わからなくなりそうだ。生を実感できる術はあと僅かしかないのだから。ないものばかりだ。そんなに欲を出してしまったのだろうか。
やっと伝えられると思ったら声が出なくなり、もっといろんな表情をした君を見ようとしたら眼が見えなくなり、話を聞いてあげたかったのに今度は耳が聞こえなくなった。微かに残ったものすらあまりに脆くて。そして自分を支える彼女があまりにも憐れで。体を動かすこともできないくせに妙に頭ばかり働いていた。しかしそれも、止まってしまった。

今はいつだろう。季節感も鈍ったのかとやっとで動いた指で風を感じた。冷たい。きっと夜になったんだろう。千鶴、千鶴。もう眠っちゃったのかな。寂しいよね。きっと今日もおはようもおやすみも独り言にしかならなかったはずだから。それとも、もう言うのすら止めてしまったのだろうか。夜風が庭の木々を揺らすのがわかった。
"―――わかった"?何故、聞こえた?今も枝が大きく揺れているから。前触れも無く一気に鼓膜が振動し始めた。心臓の音すらわかる。真っ暗なのも。それがいつもの暗闇では無く夜の月がある薄暗い程度の闇。ぼやけて見えるのは天井に伸ばしてみた自分の手。がりがりに痩せて不自然なくらい青白くなった紛れもない自分の手。そのまま首だけ動かせば黒い髪を流したまま眠る千鶴。久しぶりに立ち上がったはずなのに体はとても軽かった。衰えた筋肉も軋まない。千鶴、触れた肌はとても暖かかった。出ろよ、声。出ろよ。わかっている。だから、今くらいはいいだろ。

「ちづる、」

たった三文字の言葉なのに言うのに物凄く時間がかかった。
ゆっくりと睫毛が動き目が合った。すると、瞬きを何度もして僕の頬に震える手をしっかりと触れさせた。「聞こえる?」と聞けばこくこくと何度も頷いてみせ、やっとで抱きしめた肩や腕は細く痩せてしまっていた。ごめんねと何度も何度も謝れば、千鶴は首を横に振って笑ってみせた。
積もる千鶴の話に耳を傾け、相槌をする。そんな普通のことができなかったもどかしさを全部全部振り払うかのように。
夜が終わる。眠ってしまった千鶴を布団に戻して、静かな夜を揺らす風を掬った。もしも君がこれを願っていたことなら、僕はそれに少しでも応えられたのだろうか。おやすみ。

一人分の布団が敷かせた部屋に眠る千鶴の枕元には枯れてしまった花冠が置かれてあった。



20100429


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