(婿+ヒカリ)



『幻想の隻眼』

溶け出した瑪瑙の油は、星の光を浴びて、揺れている、揺れている。

冷涼な風の中で雪虫が飛ばされていく、草の露が頬に飛び散る、白い蛇が渦巻く茂の手前には、君が。ただ一人の君が。

「どうしたんですか、魔法使いさん」
「…いや、何でもない」

幻想の隻眼はありもしない風景ばかりを映しだして、目の前にいる君を映さない。瑪瑙の油は、歌の上手な鳥の内臓のように艶めいて、欲を喚起させる。脚が紫水晶のウイルスに犯されてゆき、瑪瑙の油に飲み込まれる。

星空は素晴らしい天気の朝で、太陽は夜にのぼる空想の世界が、確かに存在している。

片眼に宿る、ありったけの空虚。



『観賞券食用兎』

腐卵臭溢れる、脊髄神経。
もう、僕の反射神経は、朽ち果てた。

もがく白兎を力強く抱き、真雪の羽がひい、ふう、みい。みるみるうちに夕陽が射した瞳から流れる、ブラッディマリー。畑に落ちて堕ちては、皆の糧となる甘き蜜。

繰り返そう、君の名前を、この悲劇を。
繰り返そう、君が生餌で、僕は観客。
生温い仮面なんて、喰われて貪られてしまえ。

「…苦しい、よ。チハヤ、くん」

食用の為には、鳥と呼称することも厭わない。



『蝕まれた艶書』

栞の虫喰い穴から部屋を覗けば、眼球を侵略する光の乱反射に、網膜を焼かれて。

黄ばんだ紙面を這いずるコナダニは四方に分かれ、物語の結末を錯乱させて僕を惑わす。掌の微熱は、汚らしいほどに湿っぽい。灰まみれの暖炉に乱暴に投げこみ、火掻き棒という名の凶器で、幾度も紙を滅多刺しにする。古ぼけた艶書には、未だ叶わざる欲が渦巻いていて。

「本の蟲なんだねぇ、ギルくんは」

狭い部屋に谺する、虫喰いの囁き。
僕を、矮小な蟲たらしめた者。

「君は蜘蛛だな、とても小さな蜘蛛だ」

喰われたって構わない、透明で鈍足な幽霊蜘蛛になら。この身を巡る粘着性の毒に、我が身もろとも蝕まれてしまえばいいのだから。



『ジェンダーマネキン』

ワードローブに押し詰められた、顔の無いマネキンのバラバラ死体。

古今東西の装飾品と愛用する化粧品が散乱したドレッサーの、大きなまあるい鏡が、口を歪めて待っている。鏡よ鏡よ、鏡さん。世界で一番美しいのは、だあれ。人の形をした雄が、掠れた甲高い声を出す。指をきつく縛りつける、薔薇の彫金が施された指輪から、茎をうねらせ棘を誇示する茨の枷が溢れ出す。

「ジュリさんの美しさは、芸術品かな」

ほのかに紅い唇を開き、肖像画の貴婦人の如き、流し目の角度。
そんなことないわ。鏡に写る、背高で目を煌々とぎらつかせる骨ばった雄の獣をジュリと呼ぶならば、決してそんなことないわ。

マネキンの裁断部分には、痛ましい鋸の跡。業火の熱で溶けた金属の表面を、研磨して流線を創りだして。
虚偽の雌型薔薇薔薇人形を、優しく愛撫する。



『既視感のある天使』

カプセル型の精神安定剤は、記憶も妄執も治癒できない役立たずだ。平穏で単調な生活に、蓄積する冷媒の狂気に包み込まれて、カルテを持つ青白い手が痙攣する。

戸棚の硝子戸の向こうに、思い出を大量に含有する栄養剤。何粒飲んでも、どれだけ求めても、躯の内に積まれるは只のビタミン剤。妄想は具現化などせず、かつての現実と配合されていく。化学反応など起こすはずもなく、今日も静穏な日常の中。

「ウォン先生、顔が赤いです。風邪をひかれましたか?」

身長測定器が或る数値を差し、痺れを全身に施す。この数値は。

「……そうかもしれないな」

冷めぬ熱を呼び起こす、重い病気の反応だ。彼女の小さな肩甲骨が、既視感のある天使の羽のようで、酷い眩みが止まらない。



『陽気な傷負い人』

深い迷いの森で過ごす夜は、不思議と恐怖を感じない。燃え盛る焚き火が、心の奥で躍っているからだろうか。

張り詰めた空気を切り裂く、樹木の断末魔。勢いよく振り上げた斧は、暗闇で一閃する。茸で出来た輪の中で、影が踊っているように見えた。降りかかる花粉と枯葉が頬をかすり、絆創膏の下の傷がじくじくと痛む。痒いなあ、無性に痒い。勢い良く指で掻き乱すと、薄いかさぶたがぺろりと剥け、真新しい肌が顔を出す。血の雫を伴って。乱暴に舐めた指は、鉄と汗が混ざり塩辛く苦い味。

「傷だらけだ、ルークくんの顔」

戦いか、或いは恐ろしく不器用なのかと聞いてくる、一本の樹木。傷の理由など、気にしたこともなかった。いや、注意すべきでなかった。

「そうか? オレは傷なんて気にしないぜ!」

威勢良く胸を張ったのは、間違いだっただろうか。絆創膏で覆われた傷を、気にしないわけがないのに。

帰り道、銀杏を踏み潰すと、酸が脂肪を溶かす臭いがした。ぐちゃ、ぐちゃ。
リズムに乗って、ステップ!



『滲む地図、飛行船は』

広げた地図の端から滴る、湯気立ち上るコーヒーの液体。文鎮に使用していた謎の石板が、茶色の染みの中に一人ぼっち。ノアの箱舟でも象徴するかのように。

爪弾くギターのラプソディーは静かな夜を渡って、遠い過去に響く。見慣れた物全てが、以前は未知だったものだ。そこに転がっている石板だって、秘められた意味は文鎮ではないだろう。見えはしない想像の向こうで、時間の波に洗われていく石板。

理論をこねくりまわすのは、性に合わない。荘厳たる歴史の流れに身を投じ、浪漫を求めて己が手で掻き分ける好奇心を遊ばせてこそ、生き甲斐がある。

「カルバンさんの思い描く過去に、生きたいものです」

時間も次元も超えた先を見通すような双眼鏡が、掌をするりと抜けて床に落ちる。

「止めた方が良い。コーヒーの海に沈んでしまうかもしれないから、ね」

レンズを通して見た視界は、思い描いた通りの、いつもと変わらない風景。
空高くに浮かぶ飛行船の幻が、水彩のように滲んでいる。



『困惑する力』

鉱山の中に張り巡らされた道は、自分も含め、人間が破壊して作った道だ。その時の記憶が、滴る汗と揺れるカンテラに呼び起こされる。ボロボロに崩れていく、様々な色をした土と岩。闇に潜む宝石に触れると不思議に温かく、心臓を掲げるような気持ちで力強く抱いては、胸が痛む感覚を噛みしめる。アルコールに耽溺するより、ずっと安らかな痛み。

「オセさんは、宝石はお好きじゃないんですか」
「ああ、あんまり好きじゃない」

金や銀よりも華やかで、俺には似合わない。それに、放射状に流れる光の筋や美しい色を見ていると、酒よりも恐ろしい落とし穴に落ちていく気がして、魅入ってしまいそうだ。無骨な腕で掴んだ結晶は、鮮烈な音と共に、この手の中で深いヒビを刻むのに。

重い紫色のガスに噎せ返り跪き、閉じた瞼の裏に出来た結晶が、線香花火のように弾けて尽きた。



『雨と狐』

魚の死んだ目が、こちらを見上げている。澪標の陽炎が、海面で手招きをしている。雨は甘い飴となって、この手の温度を奪う。

外に降る冷酷な雨とは違って、結露した窓に付いた水滴の温度は高すぎる。濡れ鼠は家の中を恨めしく思いつつ、雨のリズムに乗って微妙に心を躍動させる。晴耕雨読とはよく言ったものだが、滴る雫の行間を読む行為も一つの読書だろうと、誰に言うでもなく弁解を並べ立てる。しいていえば、自分か。

「タオさんは、麦わら帽子をかぶらないんですか」

気紛れな通り雨は、気紛れに他愛ないことを聞いてくる。彼女の頭には、赤いリボンの麦わら帽子。

「はい、影を作ると、光が見えにくいのですよ」

影の中にいると更に光が強く際立って、手を伸ばすことすら叶わなくなりそうだから、と言う方が正しい。仄明るい通り雨の中でも、勿論。

遠くでお神楽太鼓が鳴り響き、狐の面が木々の間を揺らめく。ほら、狐の嫁入りが始まりましたよ。語りかけた雨は既にその場に居らず、鮮烈な赤ばかりが残影となって、ああ、笑うしかない。



『命運は、委ねない』

広漠とした現実に目を向けるより、万華鏡の綺麗で狭い世界を見る運命も、愚かで人間らしくて良いだろう。神ですら、思い通りにならないことばかり。人間なら、尚更どうにもならない。白紙とビーズに透ける光に微かな想いを寄せて、気を紛らわすだけ。

人間も植物も動物の声も、もはや何の興味も抱かず、深い深い眠りにつく。ものぐさな神でも世界は上手く行くようになっていて、放っといた問題を、他の土地から来訪した巫女によって解決させてしまった。

「神さまの住む此処は、素晴らしい場所ですね」

巫女は純粋な瞳で、下界を見下ろす。外界と遮断された奇妙な片田舎を、素晴らしい場所、と。全く、幻想を騙っているのか、独自の観念を語っているのか、もはやわからん。

「ふん、おまえも物好きだな」

辺鄙な片田舎を救った救世主面をしたいのかと思えば、誰に言いふらすこともなく。あまりに小さなその器に、なみなみと注がれた秘密。

腐乱して落ちた林檎を手に取って、笑顔で食べるような愚行だ。見ていられない、気がおかしい。しかし、この空漠とした現実では、その気違いが一種の希望なのだ。それは、紛れもない誠。



溶けた瑪瑙の油の塊は、やがて大地となった。赤い涙を流す白兎は、声も無く果てた。限りなく透明に近い幽霊蜘蛛は、蟲を喰うことを止めた。どんな服でも似合うマネキンは、裸にすると誰よりも無個性だった。再度舞い降りた天使は、都合の悪い記憶を持ち合わせていなかった。ひとりぼっちの樹木は、もう落とす葉の一枚も残っていなかった。華奢な双眼鏡は、日常の風景を美しく見せた。溢れんばかりに輝く宝石は、ヒビが入っても輝いていた。すぐに通り過ぎる雨は、狐面の模様を洗い流した。気違いの巫女は、ひたむきに世界を愛していた。

新たな彼女に対して、何度目かの挨拶を。
おかえり、ヒカリ。

「ただいま」
 




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