(タオ×ヒカリ)


魚も、鬱病になると聞いた。偏桃体がひくひくと腫れあがり、生い茂った森の奥深くに横たわるかのように、どうしようもない倦怠感に包まれるらしい。鬱病になった魚は、水流に身を任せるのだろうか。食欲を認識できずに、痩せ衰えるのだろうか。案ずれば、倦むが易し。偏桃体が肥大する程、魚の社会も大変なのかもしれない。

「あの、ヒカリさん。どうして口をぱくぱく開いたり閉じたりしているのですか」
「意識して、酸素を吸いこんでみました。呼吸も一種の欲望かなあと、思って」

口と鼻から、肺に空気が入っていく。この空気の中にタムタムダケの胞子が混じっていて、私の肺胞の壁にくっついて、きらきら光る綺麗なタムタムダケが生えてきたら良いのになあ。そうしたら、魔女さまも魔法使いさんも大喜びしてくれるかな。
座った川岸の土は冷え冷えとして、自分の露出した太腿を触ってみると、冷蔵庫に入れた野菜ぐらい冷たくなっていた。隣にいるタオさんの緩々なズボンはとても暖かそうだ。

「タオさんのズボンって、見た感じだと結構緩そうですね。ぴったりしたズボンは、履かないんですか」
「ああ、これは叔父のお下がりで……少し大きめですね。でも、特に問題はありませんから、これで十分ですよ」

曖昧な布のラインに翻弄されて一見誤魔化されてしまいそうだが、実際の彼の脚は細いと思う。時々浮かび出る膝の動きが、多少なりともそう予想させる。
しばらくぼーっとして向かい岸を眺めていると、向こうが違う世界のように見えてくる。そして、向かい岸にどうしても渡りたくなってくる。すぐ横にある橋を渡っても、意味がない。自分が行きたいと思っている向かい岸は、橋の向こうには無いのだから。

「向かい岸って、何があるんでしょうねえ」
「……ええと、真っ直ぐ行くとホルン牧場がありますが、そういうことでは、ないのですよね?」
「うん、そういうことではないです。そうですね、私には一面の花畑が見えるかなあ」

何の花かは聞いてはいけない。何の花でもないから、謎の花と呼ぶことも能わない。その花畑はどこかよそよそしくてんで愛想が無くて、踏み入る人間の存在を気にも留めない。そんな花々の間を、一介の大気のごとく自由に通り過ぎる。どんなにそれが、心躍ることなのか。私はきっと、知っている。

「花畑ですか」

可愛らしい言葉を繰り返す割には真剣な表情の彼は、よく言葉の意図を噛みしめているのだろう。うんうん唸りはしないが、いつも細い松葉の如き瞳をさらに細め、一生ものの問題を考えているのかと思うぐらい真剣だ。冷たい脚を抱えこみながら、彼の相変わらずの純朴さを面白がって観察する。さて、どんなお返事をいただけるでしょうか。

「私には、広々とした草原の中に、一軒の家が見えます。そして、その家はヒカリさんの家ですが、ヒカリさんはそこにいません」
「私の家、ですか。では、私はどこに?」
「……それが、どうしてか見当たらないのです」
「ふふ、タオさん。見当たらないに決まってます。私の家は、今のあなたの真後ろの方向にありますから」
「あの、そ、そういうことではないと聞きましたが」

照れか焦りか困惑か、少しどもって口をつぐんで、彼は再び首をひねっている。ああ、困ってしまう。その答えは、パチパチキャンディーみたいに甘く弾ける。心地よい痛みが脳の一部を刺激して、痛みを連鎖させていく。

「嬉しい、嬉しいけど、うん。うん」

白く凍りつきそうな脚はすぐに動かず、立ち上がってその場を後にしたいが、硬直したきりだった。口も先ほどとは打って変わって、うまく動かない。二人揃って急に言葉が出てこなくなってしまい、口をぱくぱくさせるしかないなんて、私達は魚になってしまったのだろうか。推測を繰り返して行きついた答えが、ぐるぐると頭の中を回りに回って。

「私は、ここに。ここに、いますから」

からっぽの家の中にはいないけど、この世界のどこかには、いますから。
すると大きな手が、暗闇の中に手を伸ばすように、頬に触れた。

意識が明滅しかけた間に呼吸が楽になったのは、人工呼吸のおかげ? 
連鎖した痛みを遮断出来たのかな? 
それとも、意識も無く呼吸をしているとか?

鬱蒼と茂る森の奥深く、私は動けなくなってしまった。凍えた脚は放り出され、口からはタムタムダケの菌糸が、細く脆く伸びている。偏桃体よ、腫れないで。惚れたりしないで。脳の暴走の末に、何もかもが痛くてしかたがないから。


惚れて困惑、腫れて憂鬱
(嬉しくて嬉しくて、痛い) 




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