(タオ+チハヤ+ルーク+オセ)
大きなため息と共に足元を蹴り上げたら、たまたま小石を蹴ってしまったようだ。呆れるほどにいつも通り美しい夕暮れの空に、小石がアーチを描いて遠くに落ちていく。
流れ星や雷が自分に向かって落ちるのではないか、と考えたことは無いけれど、サンダルを履いた後ろ姿の彼の頭に小石が当たって、小気味よい音と共に小石が再び跳ね上がった時は、まるで自分の頭に落ちてきたかのように、ぼんやりとその偶然を感じていた。
野菜が沢山入った紙袋を抱えた彼がくるっと振り返って、往来の端に立ち尽くしていた私の所まで歩いてきた。そして、全てを許してくれそうな天使の笑みで、私の頭を素早く殴った。余りに素早すぎて、逢魔が時に現れた妖の所為だと言われても、納得してしまうだろう。
「いきなりでびっくりしたよ、タオさん。さっき僕が受けた襲撃、君が仕向けたんだよね? 間違ってたら僕が困るんだけど」
何食わぬ顔で謝る姿勢など微塵も見せないどころか、こちらが土下座して泣き崩れないとおかしいような迫力で、彼は聞いてくる。
「は、はい。確かに、私がたまたま蹴ってしまった小石が、チハヤさんの頭に落ちたみたいです」
「ふーん、そっかそっか。ま、仕方ないか。水に流してあげるよ」
爽やかに殊勝に言って立ち去ろうとした彼が、私の頭からつま先までをじろじろと眺めはじめた。
「えっと、どうかしましたか。チハヤさん」
「君に地面を蹴る癖があるのは知ってるけど、妙に落ち込んでるなって思ってさ。ほら、糸みたいな目が萎んでるし」
「そんなことないですよ。悲しいことは、何も……あ、」
「はーん。能天気な君が世間を憂えて嘆くわけないし、魚が釣れないからと拗ねるわけでもなさそうだし、あれか。想い人に振られたんだね?」
「……ご名答、です」
役場広場の地区にある有名な伝説の樹の下で意を決して告白したひと時前のことが、遠い過去に思える。一年前にこの土地にやってきた人で、明るい笑顔がとても素敵な人だ。頬を染めた彼女の顔を見て糠喜びしたのもつかの間、他に好きな人がいるのでごめんなさい、と謝られてしまった。彼女が意外と紅潮しやすいことを知った嬉しさよりも、どうしようもない落胆が押し寄せてきて、我が家に帰ろうにも何だか帰る気になれないところだった。
「彼女の気持ちも知らないで、私は思い上がっていたんです。照れて彼女が嘘を付いたのではと調子の良いことも考えましたが、彼女は嘘を付くような人ではありませんから。ああ、でも本当に、衝撃で……」
「そこまで自信たっぷりだったなんて、逆に羨ましいね。君の判断違いによるショックかい? やめときなって。あの子、どう見てもこちらの考え通りに動くタイプじゃないでしょ?」
「はあ、そうですねぇ……」
湖上を涼しい秋風が通り過ぎていって、鉱山の方で鳥たちの鳴く声が聞こえる。遠くに見える水平線に沈む太陽が赤々と輝き、赤外線の温かさを贈ってくれている。変わらない風景がやけに郷愁的に染み入って、柄にもなく泣き出してしまいそうだ。まだこんな冗談を言う余裕があるうちは、大丈夫だけれど。
「たまには、夜までこうして外でぼーっとしていても良いかもしれませんね」
「いや、それ、いつものことじゃん」
「魚も釣れませんでしたし、今夜の夕食も作れませんし」
「……ああ、そういうことね?」
「タオとチハヤー! こんな所で何やってんだ? 秘密の会議かっ?」
突然私の背後に抱き付いてきたのは、鼻に絆創膏を張った元気なルークだった。どことなく、その元気さが彼女と似ている。
ルークの後ろから、たくましい青年に成長したオセもやってきて、懐かしい面々が揃ってしまった。自然と場は、いきなりアットホームな空気になる。
「おいおい、ルーク。タオにだって何か秘密のことぐらいあるだろうさ。二人とも、ルークは気にしないでくれ」
「……くすくす、いいんですよ、オセ。ちょっと私が恋に破れて、傷心になってただけですから」
「そっか! 恋に破れただけか……って、えっ!? 恋に破れた!? タオのハートが砕け散っちまったのかぁっ!?」
「はい、砕け散ってしまいました。それはもう、見事に」
仰天してあたふたするルークが、気遣うようにしどろもどろし始める。昔からルークは変わらず、今もわかりやすくて面白い。それを半ば諦めたように見守るオセもいつも通りだった。
「それにしても、タオが告白するなんてなぁ。お前って、変なところで大胆だよな。子供の頃から」
「オセほど思い切ってはいませんよ。今も私は、後悔や反省でいっぱいです」
「はいはーい。幼馴染の親しき会話に水差して悪いんだけど、もう時間も遅いし皆僕の家で夕食食べていかない? 勿論、僕お手製の料理さ」
見習いとはいえ腕は確かな料理人だというのは既知の事実だったので、皆諸手を上げて賛成した。実は町の方から夕食の香りが漂ってきていたので、私はすっかりお腹が空いていたのだった。
働き終わって腹を空かしたオセとルークが前を歩き、野菜の入った紙袋を持つ荷物係と化した私の横で、チハヤさんが小声で囁いてくる。
「今晩はタダでいいけど、キルシュ亭をよろしくねっていう約束ってことで。勿論、その時はタダじゃないよ」
「よくわかりました。デートで行けないのが、非常に残念ですが」
「いいじゃないか、料理代が一人分浮くよ」
チハヤさんの家に到着すると、湖の向かい側にいつもの私の家がぼんやりと蜃気楼のように見えた。手前の道では彫金家であるミオリさんとジュリさんが別れ合っていて、お医者さんのウォン先生もカルテを片手に坂道の帰り道を歩いてきていた。
すっかり暗くなった辺りには依然として美味しそうな夕食の香りが漂い、突き落された落胆から生じたみっともない哀愁が、ことごとく空腹に馴染んでしまったようだ。存分にチハヤさんの美味しい料理をいただいて、きっと明日には、明日の風が吹くだろう。
こうして、私の失恋の日は終わった。
明日は明日の風が吹く
(小石を蹴りあげてしまっても、きっと)