(ウォン+ヒカリ)


早朝の街道には、よく雀が舞い降りる。小さな赤茶色の帽子を被って、白と黒の模様が入った服を着て、ぴょこぴょこと石畳の上を跳ねては何かを探している。美味しい米粒や、美味なる昆虫でもいるのだろうか。動物が何を食べるかは知っていても、動物の味覚については医者の私にもわからない。
どこからともなく運ばれてきた落ち葉を竹箒で道端にかき集め、どこかのうっかり屋さんが落ち葉で滑って転ばないように清掃していく。いつもは祖母がやってくれている仕事だが、珍しく祖母は瞼を閉じて朝の静かな睡魔の中に横たわっていた。落ち葉掃除をすすんでしたからといって褒められる年齢ではないし、掃除一つするのにも祖母に聞くほどの子供ではない。私は黙って、最善のことをするだけだ。
医院の前方に位置する服屋の前の道も、誰かが掃き掃除をしているようだ。そっと見下ろすと、白髪の大きな三つ編みを揺らした老女と目が合う。傾斜が激しい場所に作られた段々の建物で生活していると、自然と高低の変化に気がつくようになる。声を張り上げれば届くかもしれないが、私達はお互いに軽い会釈だけを交わした。
港町というのは、潮風の所為で肌に纏わりつくようなべたべたとした風ばかり吹く。まるで、住人である人間達も塩の結晶になりかけてしまうかのように。今日は乾いた空気がとても快適だが、数日雨も降っていないこともあり、建物の壁に張り付いた塩の斑模様がはっきりとうかんでいる。
「ウォン先生、おはようございます〜」
死角からいきなり声がかかる。この、あまりに唐突で良くも悪くも独特な、不思議な対面を仕掛けてくるのは、あの元余所者の女性だろう。
「おはよう、ヒカリ君。早いね、つい驚いてしまったよ。気配を感じなかった」
「そうですか? ウォン先生が神妙な顔つきで壁をさすっているので、つい息を潜めちゃったかもしれませんが。全然驚いているようには見えませんよ」
「そうか。しかし、確かに私は動揺したよ」
腕や腰を動かして伸びをしていると、ヒカリ君は鞄からさっと水筒を取り出しどこから出したのか不明なティーカップとソーサーに、たちまち渋い銅色のハーブティーを注ぐ。素早くはあるが空気を荒立てない所作に、流石の私も困ったと思いながら圧倒されてしまう。
「朝のお茶を一杯、どうですか?」
こんなに周到に用意されてしまったら、断るのが難しいではないか。

壁はべたべたしているが、乾いた空気が心地良い。こんな日はと、屋外用の椅子を二人分即座にセットした。流石のヒカリ君も、椅子までは持ち運んでいないようだから。
「ヒカリ君の牧場は大分海辺に近い所にあると思うが、塩害などは大丈夫なのかね?」
「ええ、私も少し心配しましたが、問題はありませんよ。ホルン牧場やマリンバ農場辺りまで高台に位置していれば、もっと安全でしょうか」
「それはそうだ。でも、あの場所を選んでやってきたのは、君だ」
ハモニカタウンからホルン牧場やマリンバ農場へと向かう道の間の、非常に微妙な土地。町からは遠いし、高台より低い場所にあり海に近いので、台風の影響等を受けやすい。町と草原とを行き来する人間が道すがらに立ち寄るには、最適な場所ではあるが。
私と同様に茶を飲む彼女の足元に、今の今まで気づかなかった存在のものがいた。水鳥の一種である鴨が、羽を上手く丸め込んで鎮座している。
「あれ、もしかして今気づきました? 鴨のカモ君ですよ〜。ウォン先生とはまだご対面してませんでしたね」
ヒカリ君が片手で鴨の頭を撫でると、丸い目がゆっくりまばたきをした。緑色の頭は光の反射で微妙に色を変え、ビロードのように綺麗だ。
「私に懐いてくれましてね、一緒に暮らしているんです。カモ君は歩くのがゆっくりですから、いつもより早い時間からお散歩というわけです」
カモをペットにして優雅に散歩、とはまたヒカリ君らしく個性的で突飛な考えだ。前は小熊や蛇を家に泊めていることもあったし、もしかしたらヒカリ君はサーカスの団長も頭が上がらない調教マスターなのかもしれない。案外、私の予想は外れていない気がする。
「そうそう、以前ウォン先生に診ていただいた傷ついた小鳥さんは、ここに入院していた方に懐いていたんですよね」
「ああ、彼女がいたからな。今はもう、墓場にばかり行ってここには戻ってこない」
人懐こくて小さなあの雀は、病院の窓枠にとまっては小さな声で鳴いて、寝台に眠る彼女を毎朝起こしていた。あの雀は、彼女が死んだ後も、彼女の墓に日参してはお供え物を置いていくらしい。忙しいことを言い訳にして彼女の墓から目をそらす私と違って、真摯で立派な小鳥だ。
早朝の街道に舞い降りる雀の中に、彼女を愛し彼女が愛した雀は見当たらない。ハーブティーには懐かしい色が浮かんで揺れて、飲む度に苦い味が心に沁みる。
「実は、傷だらけの小鳥を助けた時、私は……彼女と一緒に、死にたかったのではないか。彼女に酷く懐いていた、可愛らしい雀が。そう思っているのではないかと、無性に悲しかった」
私の口は私の意志に反して、色褪せた悲しく愛しい思い出を吐き出してしまう。苦い苦い紅茶の味が、記憶の中の女性の笑顔を染めていく。
「本当に神さまがいるのなら、本当に天国があるのなら。彼女はきっと、美しい楽園で幸せに過ごしているだろう。あんな寂れた墓場になど存在せず、私達には少し遠い場所でいつものように穏やかに笑っているのだろうと、意固地になっていた。だから彼女の死は、私の見てきた死とは別物だと思っていた。だから……」
とても数か月の命しか無いように見えなかった彼女は、最後の時まで雀と話をしているなどと言って私と祖母の顔を綻ばせた。それでも、死んだことには変わりない。彼女が、どこかに存在する美しい楽園で暮らしているのなら。またあの瞳で、私を見てくれるなら。いっそ自身も死を望もうと本気で考えていた。
「……雀さんはね、そんな風に思ってない。それは全部、ウォン先生の考えですよね」
いつの間にか雀と自身を交錯して語ってしまった私の話を聞きながら、ヒカリ君は静かに口を開いた。
「ウォン先生の中では、彼女は決して捕まらない青い鳥のように見えるかもしれませんが、雀さんはとっくに青い鳥を見つけているんですよ。彼女を想う日々、毎日のお供え。それは決して無意味な習慣ではなく、雀さんの大切な幸せなんです」
「青い鳥……幸福……?」
「そうです。同じ幸福でも、彼女は幸福な王子様です。もう彼女は、ずっとずーっと幸せでしょう。唯一の心残りは、ウォン先生が過去の思い出に縋り付いていること、ぐらいでしょうか」
椅子から立ち上がったヒカリ君の足元の鴨が、ぽてぽてと重そうな体を揺らして道の先へと歩いていく。ヒカリ君は慌てることもなく、すっと私の前にそれを差し出した。
「だから、この青い鳥の羽は、幸せへの切符だと思ってください。この羽自体が、幸せではありません。どうしたらいいのか、ウォン先生にはわかりますよね?」
瑠璃色に輝く美しい羽一枚が、私の両の掌の中で重みを増す。飲み干した紅茶の香りは薄れ、お天道様が雲の隙間から眩しく照らしはじめた。
「ヒカリ君……私には、そんな資格も心構えも……」
「まさかと思いますから言いますが、私からウォン先生へのプロポーズじゃないですよ。あなたと……さんの、橋渡しに役立つようにとの、ささやかな贈り物です〜」
「……もしも、そんなまさかの状況だったら、私は君にプロポーズの手順と礼儀をきっちり教えているところだよ」
「わあ、それは困ったなあ。青い鳥と幸福な王子様の話まで出して、自分としては頑張ったのに〜」
張りつめた空気がいつの間にか潮風に吹かれ、新しい空気がやってきたようだ。鴨を連れたうっかり屋さんの来訪者は、帰り際に道端の落ち葉で滑って転んでいた。ほんのひと時の間に訪れた重く冷たい悲しみは、明日への希望と喜びになって帰ってきた。

崖っぷちに作られた墓場に来たのは、何年ぶりだろう。両親の死の時ですら、あまり来なかったような記憶がある。死んでしまった者は、決して戻らない。誰よりもそれを知っていると、あの時から傲慢だったのかもしれない。
彼女の墓の前には、様々な野菜の種や香しいハーブが並んで置いてあった。かの楽園の地で、このトマトの種を植えて収穫している彼女の姿が思い浮かんだ。太陽が当たる白い壁の家を背景に、どこまでも明るい笑顔でハーブティーを飲む彼女の姿も。それらは全部、思い出では無い。彼女の未来であり、私のかけがえのない希望だ。
頭上を、小さな鳥が横切っていった。雀だろうか、それとも、青い鳥?
女性が私の名を呼ぶ声がして、私は思わず微笑んでから、太陽を背にした彼女を見つめた。


青い鳥と王子様
(王子様とお医者様は、とても幸せでした) 




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