(タオヒカ+パオ+オズ)


しまった、と思った時にはもう遅い。腕から滑り落ちる発砲スチロールの箱、更にその中から躍り出た魚たちが、狭い桟橋の上に雹の如く降り注ぐ。体勢を立て直そうとするも再度足が滑り、この長靴の底はそろそろ寿命なのかもしれない、と思い当たった所でようやく立ち上がれた。拾い集めようと急いで足元の魚を捕まえていくと、数歩先で鈍く重い打撃音がした。音からすると、魚じゃない。小さなうめき声は、しっかり者の甥のパオのものだった。足を抱えて倒れこんでいる。
「パオ! 大丈夫ですか! あ、足が痛いのですね、大丈夫ですか、立ち上がれますか?」
手に持っていた魚を投げ捨て、パオの小さな背中に話しかける。
「うっ……大丈夫。おれ、立てますよ。この散乱した魚は、タオさんが?」
「ああ、そうなのです。滑って運んでいた魚をこぼしてしまったのです……パオ、どこか怪我は?」
狼狽しきっている私とは反対に、パオはしごく落ち着き払って魚を片付け始める。私もそれに続くと、一匹だけ踏まれてぐちゃぐちゃになった鰯がいた。恐らく、パオはこの鰯を踏んで滑ってしまったのだろう。
「おれは大丈夫です。この無事だった魚は店棚に陳列しておきますから、タオ先輩は作業を続けてください」
そう告げて発砲スチロール箱を両手に歩いていくパオ。その時、私は気がついているべきだった。パオが左足を引きずっていることに。

「なんてことしてくれてんだ!」
終業時刻に漁協に入ろうとすると、聞き覚えのある怒声がドアを突き破ってきた。恐る恐る手を引っ込め、よく耳を澄ましてみる。
「今日最後の漁で獲った鮭を、全部海に落としちまうってなぁ? やっていい失敗と、やっちゃ悪りぃ失敗があるんだぜ」
叔父の胴間声は、いつもの短気ゆえの怒りからではなく、重大な損失を分からせるための叱りからだ。鮭はこの時期、そこそこ良い値で売れる。
「パオ、聞いてんのかぃ? なんも弁解が無いようだが、本当に反省してんだろうなぁ?」
ドア越しだから聞こえないのだろうと思っていたが、パオは口を固く閉じているようだ。中に入らなくても、じわじわと叔父が苛々してきているのがわかる。何故黙っているのか理由は分からないが、このままだと短気な叔父が無駄に苛々してしまって、パオに酷く言い過ぎてしまうかもしれない。私は意を決して、漁協の中へと踏み込んだ。
「おう、タオか。パオが言い逃れできない失敗をやっちまってな。お前は気にするな」
叔父は私に軽く言って、再びパオを見つめる。叱られているのはやはりパオで、立ったまま軽くうなだれている。さっきの叔父の話が本当だとすると、パオは確かに大きな失敗をしてしまった。しかし、しっかり者のパオはいつも小さなミスすら少ないのに、何故そんなことになってしまったのだろう。
「はい……でも、パオが……」
そんな失敗をするなんて。私には、俄かに信じがたいことだった。だって今日も、私がこぼした魚を回収する手助けをしてくれたぐらいだ。
……そうだ。パオはあの時、大きく転倒していた。それも、足を抱えこんで。
咄嗟にパオの足を見ると、右足を支柱にして立っていて、左足はふらふらしている。よく見ないと気づかない程度だが、もしかしたら。
「パオ、左足を捻挫しているのではないですか? 多分、あの時に」
私が聞くと、パオはぱっと頭を上げた。少し潤んだ瞳が、こちらを向く。
「違います! タオ先輩のせいじゃ、ないです」
発せられた声は、強気だけれど子供で。
私は後ほど、その気高さに敬意を払わなくてはいけない。
「叔父さん」
「何だ」
「今日、私は魚を運ぶ途中に桟橋の上で転んで、魚をたくさんこぼしてしまいました。その時に、パオが魚を踏んで転倒してしまいました。その時に負った捻挫が痛くて、鮭を上手く運べなかったのでしょう。そうですね、パオ?」
パオは躊躇いがちに「……そうです」と言い、左足のズボンの裾をめくりあげる。ふくらはぎから踝にかけて、大きな青紫色の痣が出来ていた。
「こっ、これはひでぇ! どうして隠してたんだっこんな大痣!」
「タオさんに大丈夫だって言ってしまいましたから、心配させたくなかったんですよ……その、ごめんなさい。鮭を海に落としてしまって」
素直に謝ったパオの小さな瞳から、涙が一つこぼれ落ちた。可愛い息子を見守る父親の目には、既に、ひとかけらの怒りも宿していなかった。
「……もういいってことよ。まさか、タオがそんな失敗をしてたとはなぁ。まぁ、それよりも早く病院行かねぇと!重症になったら大変だぜぃ」
怒られて当然だとつい身構えたが、そんな暇は無い。予想以上に、パオの足の怪我が酷い。叔父はパオを支えるようにして、漁協を出ていった。私は一人、留守番だった。

後日、パオの足の怪我はすっかり良くなった。酷い痣だったが軽度な捻挫で、今では肌にも骨にも筋肉にも面影が無い。件の出来事に対しての叔父の怒りや心配は無くなり、漁協はいつも通りの空気を取り戻した。ただ私一人だけ釈然としないまま、ぼんやりと釣りをして。
「パオくんの足が完治したと聞きました。良かったですね」
海面に広がる、波紋。水が喋ったのだろうか、いや、ヒカリさんだ。ヒカリさんが、そこにいる。まるで大気のように、私たちが大自然の一部であるかのように。人として話していることを、たまに忘れてしまう。
「はい。良かった、です」
「それにしては、浮かないお顔です。タオさんが」
彼女は、何も聞いていない。この思いを、本当は、吐き出していいわけではない。上手く表現できないのなら、言葉の混濁物は、ただただ汚いだけなのだから。けれど、抑えきれずに語りかけてしまう。優しい水に。
「……今回、パオは叔父に叱られました。しかし、パオの失敗のもととなった自分の失敗は、私は、あまり叔父に怒られていません。パオの怪我で忙しくしているうちに、忘れられてしまったようです」
「そうですか。それには忘却だけでなく、許しも入っているんじゃないでしょうか? タオさんも、深く反省したのでしょう?」
「はい。でも……私は、まだ勝手に、望んでしまっているのです。この罪を、誰かに赦してほしいと」
勝手も勝手だ。私の失敗などにかまけている時間は、別に叔父にもパオにも必要無い。それどころか、大きな徒労だ。全てが終わった後にわざわざ事件を掘り起こし、跪いて無駄に赦しを乞う役立たずの私への対応なんて。私も、みすみす家族の場を台無しにしてしまうことはやりたくない。ああ、いじけたこの気持ちが、とても邪魔だ。
「赦し……かあ」
彼女が反復すると、水の波紋が一つ二つ、揺らいで消える。
「ね、タオさん。こっちを向いて」
ゆっくり顔と体を彼女の方に向けると、両頬を小さな両掌で包まれ、互いの額と額が軽く重なった。冷や水のように冷たい膚。閉じた目蓋を縁取る長い睫毛。
「タオさんの小さな罪と、タオさんの優しい寂しさ。全部、全部、私に下さい」
寂しさ。自覚したことのない単語だった。だって、私はけっして寂しくなんてない。それでも、間違いだと思わないのは。今確かに、小さな罪と優しい寂しさを、ヒカリさんにあげてしまったからだろうか。
「はい。これで全て、私のものになりました」
ヒカリさんの手に解放された後、胸の内のもやは、水に飲み込まれていったと知った。お母さんが小さな子供に、痛いの痛いの飛んでいけと言うよりも、真剣で酷く優しい呪文。
「さあ、新しく収穫した茶葉を使って、美味しいグリーンティーでも飲みましょう。ゆっくりのんびりね」
「ヒカリ、さん」
穏やかに振り返る彼女の姿が美しくて、己の声が縋る子供のように惨めであることを恥じ、雲間から光が差した空を見上げて目を細める。
いつか、あなたの全てを、私にも下さい。
そんなことを言う度胸は、まだ弱虫の自分には無かったから。
「ありがとうございます」
自分が知る唯一の心からの感謝の言葉を、率直に伝えた。


子羊は水中で懺悔する
(私のエグリーズは、あなたの掌の中にある) 




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