(タオ×アカリ)


黒いタールに飲み込まれるように、メープル湖は影に包まれた。
町の方を仰ぎ見ると、鮮やかな緋色の光とおよそ影と呼ぶには美しすぎる紫紺の色が、時間の流れによって絶えず変化している。こちらは先に夜になってしまったのだな、と一人先を越したような、しかし寂しい気持ちが燻り出し、微動だにしない釣り糸をじーっとただ見つめれば、更にどうしようもない心地がしてくる。これも、黄昏時の魔力だろうか。湖面に映る輪郭が無くぼやけた人の像が、もう釣れないから帰りましょう、と諭してくる。その顔は小さな波紋に掻き消され続け、真意を読み取ることができないが、そもそも真意も何も自分自身に対する警告という存在には、とうに気づいている。
夜にしがみつく子供の私を、穏やかに諭す大人の私。

「タオー」

聞き覚えのある声と、地面を駆ける音が近づいてきた。頭を動かして上半身を動かすと背骨や首筋に鈍い音が響き渡り、すぐに立ち上がることができなかった。長いこと、けして座り心地が良いとは言えない桟橋の上にいたようだ、自分は。

「こんな時間まで釣り?ふーん、タオは夜早く帰ると思ってた」

快活そうな少女は、一人のくたびれた釣り人の後ろに立つ。湖面に浮かんだ影法師が、二人。

「ええ、いつもはもう帰る時間ですが……今日は何も釣れないもので、つい躍起になって粘っていました」

「タオが躍起って、へえ、珍しい」

「そうですか?」

「うん。タオってそんなに釣れなくても気にしなさそう、っていうか」

あたしはやっぱり魚が釣れないと、釣りって楽しくないからさーと、苦笑いの表情で頬をかく、牧場主のアカリさん。それは、人間として当然だろう。かけた時間の分だけ、報酬が欲しいと願ってしまうものだ。その時間自体が私にとっての報酬になるところだが、はて、今日は本当に魚が欲しいがために此処にいるのだろうか。

「アカリさんは、これからどうなさるおつもりなのですか?」

何気なく問うてみれば、かすかに、小さな顔が赤く色づいた気がした。

「…タオに会いに行くつもり、だった」

おや、と私が疑問の声をあげると、ああ、もう、恥ずかしい!と独り言を小声で言いながら、彼女は顔を手で覆ってうずくまっていた。私ときたらかなり呆気に取られてしまって、どうしましたか具合でも悪いのですか、などと危うくとんでもない発言をしてしまうところだった。

「……それなら、もう少しここで一緒にいましょうか」

やっと出せた本心からの言葉に、アカリさんは明るい笑顔で頷き、私の垂らす釣り糸を見ていた。こう表現すると些か後ろめたいけれど、まるで魚が釣れたかのように喜ばしい感覚があった。既に辺りが暗くなろうとも、眩しいほどに瞳を照らす明るい花が、湖の側にぽつねんと生きる柳を気にかけてくれている。何と嬉しいことか。彼女は釣り糸の方ばかり見ているから、その横顔を見ていることも気づかれまい。

私は知らず知らず、待っていたのだろう、花が私に笑いかけてくれる時を。闇の色が、より一層濃くなった。




暗き柳と明るき花
(闇の中にも 色は在る)





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