(タオ×ヒカリ)
配布元→jachin


1.繋いだ手を放すタイミング

「タオさんの手って、大きいですねえ」
いきなり彼女がそう言って、汚れた手袋を外して私の手の横に並べてくる。確かに私の手の方が一回り大きく、節々が骨ばっている。こうやって並べると更によくわかるが、私の黄色い肌と違って彼女の肌は赤い色をしている。指の先の爪が、つやつやと光る桜貝のようだ。
「そうですねぇ。ほら、こうするとヒカリさんの手が収まっちゃいますよ」
彼女の小さな手の上から、そっと包み込んでみる。思った以上にその手は冷たくて、魚の腹を触るような感覚がした。目を丸くした彼女は、その仰天振りとは裏腹に「タオさんの手は、とても暖かいです〜」と、ゆっくりした調子で言うものだから、「それでは、こうして温めましょうか」なんてうっかり口が滑って、あ、行きすぎてしまったな、と思った時には、もう遅い。
「いえ、大丈夫です。タオさんの手まで冷たくしたら、申し訳ないですから」
鱗をくねらすように冷たい水のような肌は逃げてしまい、また土くさい手袋を瞬時に被せてしまう。
そんなこと気にしませんよ、という言葉は胸の奥に沈んで、とても便利な「そうですか」という言葉に置き換わる。
「ヒカリさんは、もっと体を温めた方が良いですよ。病気にでもなったら大変でしょう」
「そんな心配、大丈夫ですよ。いつも元気ですから」
大法螺吹きもいいところだ、何度か倒れているのに。でも、頑固な一面もある彼女が見られるのは、今までになかったことで、一層嬉しい。
「では、もしも体調を崩されたら、隣で手を繋いで温めますね」
もしも、という不確定な機会に望みをかけて。友達という特権を利用して、冗談をカモフラージュして。先程冷たい手が逃げていった瞬間の記憶が、手のひらの上でぐるぐると回っていた。


2.どこにも行けないね

目に見えない釣り糸が絡みついて、何故だか彼の隣を離れられない。自分の釣り糸が絡まったのかな、と思っても手に持つ竿に繋がる糸は真っ直ぐ海に落ちている。隣の彼の糸も、また然り。
「あの、何処か行きましょうか?」
突然の提案にも関わらず、彼は二つ返事で了承してくれた。カバル草原地区の川でしばらく釣りをするも、微妙な違和感を感じてしまう。移動したのに、移動していない感覚。
「ヒカリさん、どうされたのですか?」
落ち着かない私の様子が気になったのだろう、彼の質問に答える内容も思い浮かばなくて、「今日は、いい天気だな〜と、思っていたんです」とお天気の話を話題にする。実際にそう思っていたのは事実だ。
「ああ、確かに。…あそこの雲さん、ヒカリさんに似ていますよ」
そう言って彼が指差す先には、白くて丸いふわふわな雲。夕暮れの影で紫色が濃く、どこか寂しげな風貌だ。
「ああいう風に見えるんですか、私」
「色が、何となく。あのはねた所は、髪の毛で」
「なるほど〜。いや、面白いですねぇ、タオさんは」
繰り返される他愛ない会話の中で、ふと、見えない釣り糸がきらっと光った気がした。それは、一日の別れの後もずっとずっとついてくる。
さようなら、さようなら、さようなら。心の中で手をふってみせるのに、手や足に絡みつく釣り糸が肌に食い込んで、化粧のように赤い線を作っていく。いやはや、全く、これでは。どこにも行けないのは、そういうことだった。


3.貴方の声が私の心を放さないのは

小さなおまじないでも仕掛けられたかのよう。
「タオさん、今日はお昼寝ですか」
頭上から、緩やかな波紋を立てるような、声。ぼんやりしつつ、起き上がって顔に乗せた麦わら帽子を取ろうとすると、「あら、いいですよ〜そのままで」と、柔和な調子で力強い抑制をされる。ぐうの音も出ないまま、桟橋の上で寝転がる私。
「どんな夢を見たのか、後で教えてくださいね」
ふわり、と花の香りが降りかかり、微かな足音が遠のいていく。
どんな夢、か。今ですら夢の中のように、ただ声だけがこだまして、全てが本当のことか疑わしい。せめて現実だという証拠に、その顔が見られれば。タオさん、と呼ぶあの人の声ばかり響いては、波の音に飲み込まれていく。ああ、そうだ。彼女の声は海の中を浮かぶ泡のように、水面に緩やかな波紋を作る。ぷかぷかと浮かんでは、ぱちり、ぱちりと小さく音を立てて。その泡に包まれ囚われた唐変木は、一体何処へ流されていくのだろうか。それとも、水に侵されて腐敗して、水中に沈んでしまうのだろうか。
「……まあ、それもいいかもしれませんね」
水中で腐り果てることを選ぶ自分を、随分と捨て鉢だなあ、と自嘲する、ある昼下がりのひと時。


4.冷たいだけの水遊び

子供の時以来の水遊びに、少し心が踊り立った。わけでもない。
「こうやって、親指と人差し指の隙間から水を押し出すようにすると、水鉄砲になりますよ〜」
秋の川の水は痺れるように冷たく、麻痺しそうな感覚が気持ち良いのだから、この手と足はどれだけ冷えていることだろう。中腰で手を動かして手のひらから水を打ち上げてみせる。河岸に立つ彼は、「面白いですね」と言ったかと思うと、同じように中腰で私の真似をする。違うのは、彼の足は長靴で私の足は素足だということぐらい。微笑ましくその様子を眺めていたら、強烈な噴射が顔に突撃してきた。顔を拭うことはせず、ただじーっと水が流れ落ちるのを待っていると、向かいに見える彼の顔がとても近くに寄ってきた。
「ヒカリさんっ、だ、大丈夫ですか…!」
狼狽する彼は、私の顔を優しく拭う。生温くごつごつとした感触が、顔の神経を占めていく。
「いえいえ、全然大丈夫ですから」
騒ぎそうな心を落ち着けて、半歩下がってしゃがみこみ、足元をちらりと見る。先程からちくりと痛む何かは、恐らく足にガラスでも刺さったのだろう。赤い色が浮遊しているのが、確かに視認できる。ビンや短パンが数多く散乱していてもここの水は透明で綺麗なのだから、ある意味凄い。
「タオさん」
「はい」
「ここに、しゃがんでください」
大人しく正面にしゃがむ彼の顔に、出来るだけ力を抜いて、水鉄砲を発射した。呆然とした彼の糸のように細い目が僅かに見開いて、綺麗な若葉色の瞳を何度か瞬きさせた。
「これで、お揃いですね」
人形のように固まっていた彼は、ふいに糸が緩んだかのように、くすくす、と笑い出す。「そうですね、お揃いですね」あまりに嬉しそうに笑うので、そうでしょうそうでしょう、とつられて本物の笑顔が滲み出してしまう。心地良いと感じていた筈の水は段々とただ冷淡にしか感じられなくなり、微かに生まれた温もりを悉く奪い去っていくようだった。
遠くで烏が鳴いたから、そろそろ帰りましょうか。


5.寝息と、吐息と、呼吸だけ。

寝ている時は誰しも無防備だと思っていたけれど、隣で寝ている彼女はまるで透明な薄い膜に包まれているかのような、不思議な眠り方だった。仰向けになって、両手を胸の上で組んで、触れがたい空気は死人のそれに近い。菫色の空は既に群青色のベールがかけられ、夜露にあたりそうな静かな夜。私の真似をして冗談半分で昼寝を始めた彼女が、全く起き上がらないまま桟橋に横になっている。海は既に暗く深く、私は彼女が海に落ちてしまわないか無性に心配で、桟橋の端に座ってずっと辺りを見張っていた。
考えてみれば、遅い時間になっても、誰も彼女を咎めることはない。自分は叔父やパオがとても心配してくれるが、彼女は何処までも自由に見えた。酷く寂しい、自由。
凪の静寂の中で聞こえる消え入りそうな寝息が、そっと鼓膜を揺らす。横目で彼女をちらりと見やっても、その姿勢は何ら変わる所が無い。私の心ばかりが乱されて、思わず釣り糸を投げやりに海に放り投げて、やっと落ち着いた、気がするだけ。青い息に、ささやかな吐息。声を出して彼女の目を覚ますべきなのに、溢れ出るのは力の無い溜息ばかり。せめてこの呼吸音があなたの耳を通りぬけていくように、と思っても、彼女は頑として起きる気配が無い。このまま世界は、やがて朝を迎えるだろう。そうしたらきっと、その透明な薄い膜も光に消えて、彼女が目覚めてくれる。その顔を一日の一番始めに見たいから、私は静かな夜を動きもせず喋りもせず、糸の切れた木偶の坊のように座っていた。


6.時間がほしい

好きだと思える、その時まで。
「タオさん。おとぎ話を、しましょう」
昔ある所に若い漁師がいて、虐められていた亀の背中に乗って竜宮城で数日過ごした後地上に帰ると、彼を知っている者は誰も居らず、開けてはいけないお土産の玉手箱を開けると、みるみるうちに老人になっていた、そんな話を。
「……海の中の時間は、とても速いのですねぇ」
おとぎ話の内容に、彼が深く相槌を打つ。
「そうですねぇ。時間が速く流れるほど、遅く感じますからね〜」
寿命の短い生き物程見ている時間の流れはとても遅く、私たちにとってスローモーションの世界で生きている。海の中で、若い漁師の体内時計は速くなり、竜宮城の彼女らと同じ時間を過ごしたのだろう。竜宮城の彼女らの寿命が短いかどうかは、さておき。
「どうして、開けてはいけないと言われた箱を開けてしまったのでしょうね?」
「それは私でも、何となくわかります」
「私には、わかりません。何故ですか?」
「……また、彼女の元に帰りたいから、ではないでしょうか」
至極意味深な発言に、はあなるほど、と気抜けした返答を、うっかり。
「そういうもの、なんですかね」
まだ上手く納得できないまま、横顔の彼を見る。
「数百年の時を取り戻すことで、人間ではない何物かになり、きっと」
また、彼女の元へ行くのでしょう、生まれ変わった自分で。一言一言飲み込むような言葉に、イメージだけはぼんやりと頭を包み込む。
「どんなにゆっくり暮らしているようでも、」
時間は、倍速で流れていく。
「残りの時間は全て箱に詰めて、」
彼に選択の一時を、もたらす。
……いつのまにか彼のおとぎ話が心地良い眠気を誘って、テーブルの上に頭がくずおれていった。遠くなる意識の中で、ヒカリさん、と何度か私の名前を呼ぶ声が。あの亀さんは、私を竜宮城まで連れていってくれますかね〜と、若干能天気な声も。そして、お姫さまは私に時間を返してくれるのでしょうか、とも。私を、人間から解放してくれるでしょうか、とも。こんなに饒舌に語るタオさんは別人のようにも感じられ、もう少し時間があれば、時間の箱を手渡す気持ちも持ち合わせるのに、また彼に会いたいと願えるのに、と思う。でも、別れの瞬間まで来ないと、そうは思えないのだろう。それまで当たり前だった、共に生きる時間が、欲しいと。


7.どうしても、だめなの。

ずっと傍にいたいから、ずっと傍にいたいけど。
「ヒカリさん」
「タオさん」
「もう一年が終わって、また一年が始まりましたねぇ」
「そうですねぇ」
カウントダウンで年が明けた後の町の広場は、いつにも増して賑やかだった。かえってその賑やかさは二人のマイペースさを際立たせ、集団の中で自然に孤立する。薄く微笑みあって、人々のことを眺めてはぽつりぽつりと、言葉を交わしていく。
「今年の抱負は?」
「昨年と同じく、牧場繁栄です。タオさんは?」
「昨年と同じく、海や川が綺麗でありますように、です」
「それ、抱負じゃなくて願い事ですね」
「ああ、そうでしたね」
やがていつの間にか広場はいつもの閑散とした雰囲気に戻り、その中にぽつんと二人ぼっちで取り残されてしまった。
「皆さん、帰ってしまいましたね」
「ヒカリさんは、帰らないのですか?」
「タオさんが帰るまでいますよ」
「私も、あなたが帰るまで」
ずっと、ここに。両の手を羽織の袖に入れたタオが、亀のように首をすぼめて見せる。それを見たヒカリが、自身の首に巻く白いマフラーをくるくるとタオの首元に巻きつける。
「これで、暖かいでしょう」
「でも、ヒカリさんが」
「私なら大丈夫ですよ。寒いの、好きなんです」
なら、何故マフラーを……というタオの問いは、北風に吹かれて消えた。左程話すことなどないかと思われたが、やれ畑の具合はどうだの魚の穫れ具合はどうだの、話す話す。まるで、埋められない距離を、言葉で誤魔化すかのように。
「ほら、またいつものように」
一緒に帰りましょう、というのは、勿論それぞれの家に帰るけれど同じ別れを一緒に告げましょう、という意味だった。そうすればまた何事も無く、それぞれの家に帰れる。
「「……さようなら」」
もどかしいけれど、安心する雰囲気はこれからも継続して。
後どれぐらい、どうしても駄目だと、我慢できない気持ちを遊ばせることが出来るだろうか。取り返しが付かなくなる前に、何もかも見えなくなる前に。あえて盲目を待ち望むような、そんな毎日を生きている。

 

付かず離れず七題
(追い詰められていく 境界線の上) 




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テーマ「人外ファンタジー」
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