(タオ→ヒカリ→?)


「ごめんなさい、あなたが、ヒカリさんのことが、好きなんです。切なくて、苦しくて、どうしようもないぐらいに」

春の始まりにやってきた春風のような人が、今、腕の中にいる。少し強張った身体で、何も声を上げぬまま。その真新しい状況に、息を止める。予想と期待がどんなだったかなんて、すっかり忘れてしまった。目の前の現実が、あまりにも色褪せて見えたから。

+++

いっそ、本当に海に落ちてしまっていたら良かったのに。赤く輝く、ルビーのネックレスが。私の懐で心臓の音を聞いているそのネックレスは、火薬の詰められた爆弾のように私の鼓動を速まらせる。

「彼は私のことなんて、気にも留めてないとは思います」
「じゃあ、どうして」
「どうして……本当に、なんででしょうね」
「……」
「でも、彼を想い続けられたら、それだけで幸せなんです」

傘の影でよく見えない表情を見つめたら、何かが爆発した。体中の血が、熱い。

「本当に、幸せですか?」

こちらを見上げた双眸をしっかりと捉えてから、私は続ける。

「私には、とてもそうは見えません。他の人は誰も言わないかもしれませんが、明らかに以前と違って、あなたは苦しそうで辛そうです。でも、心から嬉しそうなあなたを見ることも出来ました。その時のあなたを、あなたの好きな人に見せたいぐらいです」
「……」
「でも、見せたくないとも思ってしまいます。だって、そうしたら、ヒカリさんはもう私の所へは来なくなってしまうでしょうから。もう隣でゆっくりと会話を交わすことが、出来なくなってしまう……」
「……」

+++

豪雨が数日間続いた。まだ晩春であるのに勢いのあるそれは、既に夏になってしまったかのようだった。牧場仕事を終えて家で一息ついた後、すぐに出かける。野菜の種や餌の補給を済ませ、一軒ずつ住人たちに挨拶していく。いつもはあまり傘を持たない自分だが、流石にこの豪雨の中では傘をさしているのが見えると、彼らは安堵していた。知らぬ間に心配されているのかと思うと、少しこそばゆいけれど、やっぱり嬉しい。
最後に残った漁協の桟橋に訪れると、板を並べて作った狭い床を隅々まで見る。最近は毎日桟橋を隈なく見ているので、板が何枚使われているか釘が何本使われているか等を覚えてしまいそうだ。
どんなに探しても求める物は其処には無く、仕方なく海を覗き込むと、幾つかの白いクラゲが大きな泡のように浮かんでいた。水の洞窟のクラゲに比べると小さくて、見逃してしまいがちだ。当然探し求める赤色が見えるわけもなく、溜息を吐く。

「ヒカリさん、今日も何か探し物……ですか?」

背後から聞こえた声がいつになく低く暗く聞こえるのは、この雨の所為だろう。いつの間にか桟橋に這いつくばるような格好になっていたため、肌と服が泥水で汚れてしまった。急いで立ち上がり軽く水を拭い、傘の柄を強く持ち直す。

「タオさん、こんにちは。はい、もう冬の時から無いので、もし海にでも落としてしまっていたら、絶対見つからないなって思ってはいるんですが……。まだ、諦められなくて。もしかしたら浜辺に流れ着いてたり、桟橋に引っかかったりしてないかな、とか」

何を失くしたのか、タオさんにはずっと言わないでいる。いやタオさんだけじゃない、誰にも言っていない。話にするにはあまりにも些細で、個人的なことだから。

「そんなに、大切なものなんですね」
「そうですね、そんなに貴重な物ではありませんが、私にとってはとても大切なものです」
「……ヒカリさんの、好きな人が下さったものなんですか?」
「いえ、違いますよ。アクセサリー屋さんで作ってもらったものです」

好きなあの人のことをイメージして作ってもらったネックレスだった。あの人はそれを知らない。知ったところで、鼻で笑うだけだろう。それでもよかった。私があの人を想うことが、大切だったから。

「そろそろ新しいのを作ってもらおうかなあ、とも考えましたが、もう少し探してみます」
「そうですか」
「はい。では、浜辺の方を探してきますので、また明日」
「あの、ヒカリさん」
「何でしょう?」
「ヒカリさんの好きな人のこと、良ければ教えて下さい」

+++

音が世界から消えてしまったかと思った。彼女の声以外の、全ての音が。
手に持つ傘の柄が、手汗で少しずり落ちたのが、彼女に気づかれただろうか。少し唇を噛んでしまった瞬間を、彼女は見過ごしてくれただろうか。目の前にいる見慣れた女性が、まるで別人のように思えた。

「……そうなんですか。意外、ですね。ヒカリさんに好きな人がいた、なんて」
「正確には、好きな人が出来た、かな。いつかね、青い羽を渡したいぐらい、好き」

青い羽。幸福を象徴する鳥が落としていくそれは、ラブレターよりも先の想いを伝える、求婚を示すものだった。

「あの、タオさん」
「あ、はい」
「いきなりこんな話……迷惑、でした?」
「え?」

「私、こんなこと誰にも言えなくて。誰かを好きになったの、初めてで。どうしたらいいんだろうって、ずっと悩んでいたんです。でも、タオさんの側にいたら何だかほっとして……つい、話しちゃいました」

その女性は、屈託の無い少しバツの悪そうな表情で、苦笑する。凪いでいた冬の海を潮風が撫で始め、彼女の髪が些か乱暴に解された。吐く息の白さが風に流れていく。

「いえ、迷惑だなんて……。ただ、とても、驚きました」
「すみません。こういう話題、タオさんは苦手かと思って」
「いえそんな、全然苦手なんてことは……」

雨が上がっても相変わらず厚い雲が空に敷き詰められていて、遠くの花霞の色さえも褪せて見える。手元にある古いボロボロの傘は、こんなに黒々としているのに。
今、突然桟橋が重みに耐えられなくなって、彼女と私が海に落ちてしまったとしたら。私は、彼女を助けるだろうか。そもそも私は、陸まで泳げるだろうか。とりとめもなく、不毛に、その光景をキネマのように想像の中だけで、繰り返す。ただただ繰り返して、瞳を閉じる。そこは夢よりも暗く、闇よりも明るい。

「あの、ヒカリさん」
「はい」
「私では何の助けにもならないかもしれませんが、精一杯ヒカリさんの助けになりたいと、思っていますので。その、一人で悩まないでください」

上手く言えただろうか。そればかりが気になって、つい口を覆い隠してしまう。彼女の胸で、赤いルビーのネックレスが眩く煌めいた気がした。ここにはいない誰かの名前を、どうして気軽に聞けないだろう。

「……ありがとうございます!」

港に船が着船しようとしている。笛の音と共に、微かに鐘の音も響いた。恥ずかしさを隠すように早々に去ってしまった彼女の足元に光る、赤いルビーのネックレス。それを拾いあげた私は、そっと懐にその赤い宝石をしまいこんだ。

+++

「タオさんって、可愛いですね」

出会ってしばらく経ち、すっかり顔馴染みになってしまった私とヒカリさんは、すっかりお馴染みになった桟橋での会話を楽しむ。会話の多くは、ヒカリさんがきっかけを作る。

「可愛い、ですか?」

「はい。お昼寝している時の幸せそうなお顔とか、釣りをしている時に水平線の方をぼんやり眺めているところとか」

「うーん……そうですか?」
「はい」
「恐らく、初めて言われました。そんなこと」
「そうなんですか。きっと、みんなタオさん本人には言いにくいんだと思いますよ」

確かに、大の男を可愛いと形容するのは、中々言いにくいだろう。本当に可愛らしい人なら、別として。

「ヒカリさんの方が、可愛いですよ」
「えっ! 初めて言われました」
「みんなヒカリさん本人には、言いにくいんでしょうねぇ」
「ふふ、そうですか」

一向に釣れない魚たちは、私たちが会話する時間を作ってくれているのかもしれない。たまに互いの釣り糸が絡まってしまった時も、丁寧にゆっくりと糸を解いてはまた適当に海へと投げる。
頬に冷たいものが触れた。雨だ。軽い天気雨の少し向こうに、青黒い雲海が押し寄せてきていることに、気づく。時雨だけでは終わらなさそうな様子だ。
すぐに釣り道具を収納し、漁協の片隅に放置されていた黒い傘を引っ張り出す。

「ヒカリさん、家まで送っていきます」
「いえ、大丈夫ですよ。タオさんが濡れちゃいます」
「暗くなると、その……心配ですから」

思えば、この時の私はおかしかった。傘をヒカリさんに手渡せば済む話なのに、わざわざ家まで送るなんて、初めてのことを馴れ馴れしく言って。しかも傘は一本しか無くて、ぎこちない相合傘で私だけでなくヒカリさんもたくさん濡れてしまって。
ヒカリさんは慌てて謝る私の頭をタオルで包み込み、暖かい家の中でしっかりと乾かし、空が晴れたころには服もようやく乾き、それからやっと私は漁協に帰れたのだった。明るいところでよく見たら、幾つか穴が開いていた黒い傘を携えて。
その後、俄かに頭が熱くなって、私は風邪をひいた。

+++

大水車前の川は、特大級のキングサーモンが釣れる釣りスポットだ。でも、今釣ったのはキングサーモンではなく大量の海パンと藻と空き瓶の数々だった。これでは流石に、気が滅入ってしまう。頑丈なガラス瓶を地面に整列させて、暇を弄ぶ。
ふと橋の上を仰ぎ見ると、見知らぬ人が欄干に寄りかかっていた。東雲色の雲みたいな髪がふわっと揺れたかと思うと、こちらを見るその瞳まで、朝焼けの空のような色合いをしていた。
軽く手を振られたので、こちらもつられて手を振る。その人はすぐに橋を渡ってきて、私の目の前にやってきた。

「はじめまして。あなたがタオさん、ですか? 漁協のオズさんに聞いたんですが」
「はい、そうです。あなたは……えっと、新しく来た牧場主さんですか?」
「はい。ヒカリといいます。これから町の近くに住むことになったので、良ければよろしくお願いします。それでは」
「あの、少しいいですか」

早々に立ち去ろうとする彼女を引き止め、暫し逡巡してから、彼女に釣りを勧めた。手持ちの釣り竿も、一つ手渡してしまった。長く使っている大切な釣り竿なのに、今会ったばかりの人に簡単に手渡せてしまったのは、緩やかな諦念の気持ちに包まれていたからだろう。それぐらい、魚が釣れない一人釣りが苦痛に思えてくる頃合いだった。

「今は魚がかかりにくいと思いますが、是非、釣りなどしてみてください」

魚が釣れないのに釣りを勧めるなんて、自分でも強引なことを言っている自覚があった。暇な人ならともかく、彼女はこの地方にやってきたばかりで、やることはいっぱいあるはずだ。失言だったと口を閉じるも、後悔はしなかった。私が出来ることといえば、これだけだったから。

「ありがとうございます」

その人は完璧な笑顔を作り、釣り竿を掲げて、妙に深々とお辞儀をした。やはり、こちらもつられてお辞儀をしてしまう。

「せっかくですから、一緒に釣りをしてもいいですか?」
「え? あ、あなたがそうしたいのであれば……」
「そうしたいんです。こんなに素敵な釣り竿をくださったんですから」

春の始まりにやってきた春風のような人が、今、隣にいる。隣で、釣れもしない釣りをしながら、嬉しそうに川面を眺めている。その真新しい光景に、目を奪われる。予想と期待がどんなだったかなんて、すっかり忘れてしまった。目の前の現実が、あまりにも鮮やかに色づいて見えたから。


雨中キネマ
 





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