プラトニックな一歩目を




雨が降るなんて聞いてない。ようやく見つけた屋根の下、ボヤきたくなる気持ちをすぐにSNSで吐き出した。傘も無いから帰れない。さっきまで顔を合わせていた友人らからの心配とお叱りのメッセージが飛んでくるのを小さく笑いながら読んで、頬をなぞる湿った風にふと顔を上げる。背後に佇む店も私を見下す空も暗闇に満ちていて、恐怖を煽られる。視線を下ろせば目の前にはあの有名な帝国学園が建っているから尚更、早く帰りたいなと思った。帝国学園は日本一偏差値が高くて、厳格な校風で、生徒の家柄も良くて、……サッカー部が強い、らしい。かく言う私の通う高校は偏差値はお世辞にも高いとは言えないし、女の子はスカートも短くするし化粧だってする。帝国学園とは正反対に緩い、ただ卒業するのが目的の学校だ。帝国に通うようなお坊ちゃまお嬢さまは、みんな努力も何もしない私のことは軽蔑するんだろうな、もはや視野にも入れないかもしれない。この学校に通う、別れたばかりの元カレを思い出して溜息を吐く。今日友達に会っていたのだってその愚痴を聞いてもらうためだ。携帯を握りしめて、自嘲気味に笑った。彼女を見下すような男でも好きだったのだから、恋ってものはわからない。こんな時にネガティブになったってしょうがないのになあ。壁に背を預けて、ずるずると屈み込む。降り続ける雨は激しさを増していて、じわりと体を侵す寒さに肩を震わせた。風邪、引くかも。それも仕方ないかと諦めかけた時だった。


「あの、大丈夫ですか?」


掛けられた声に反射的に顔を上げると、飛び込んできたのはまだ幼さの残る男の子の顔だった。それだけならまだしも、その顔が整っているから更に心臓に悪い。何も答えられない私に合わせて屈み込む姿をじっと見つめていると、彼が着ているのが帝国学園の制服だとわかって、びくりと肩を揺らしてしまう。…別れ話をした時も、彼は制服を着ていた。それが酷く目に焼き付いて、若干トラウマになってしまったのだ。みんながみんな彼のような人ではないと頭では分かっているけれど、そう簡単に割り切れるものではない。ぐるぐると巡る思考の渦から言葉を見つけることは難しくて、あ、だとかえっと、だとか意味を持たない声ばかりが零れ落ちる。それすら震えているのだから、本当に情けないものだ。こんな女、見捨てて去ってしまっても仕方がないと思うのに、目の前の男の子はただ待ってくれていた。心配そうな表情を湛えて、冷たい地面に膝をついて。…ああ、彼氏は絶対こんなことしてくれなかっただろうな。そう思うと、さっきまでの恐怖が嘘のように落ち着いた。この人は、優しい人なんだろう。「私、」その声はもう震えなかった。


「傘、家に忘れちゃって…」


そう言って、人工的なピンクに色付いた唇を不器用に歪める。でも寄りにもよって歳下であろう彼に話すことではなかったかもしれない、そう思うと少し恥ずかしくて視線を逸らした。目の前の彼はそれに気付きもせずに肩にかけた鞄の中を漁っている。帝国学園指定の、革の鞄。私の持つ数千円で買えるようなスクールバックとは天と地の差だ。元カレが言った「お前と俺とじゃ何もかも違う」の言葉が少し理解できてしまう。たしかに、持ち物ひとつとっても全然違うよなあ。だからと言って見下していい訳ではない、とは思うけど。「あの、」雨が打ちつけるアスファルトをぼうっと見つめていたからか再びかけられた声に大袈裟なほど驚いてしまって、目をまあるくした彼に何となく居た堪れない気持ちになった。


「え、と…はい、なんですか」

「俺の傘、使ってください」

「えっ?」


差し出された黒い折り畳み傘をすぐに手に取るのは憚られて、本当にいいのかと問い掛ける。微笑んだ彼が構わないというものだから、恐る恐る受け取った。きっとこれもいい傘なんだろうなと思うと緊張してしまう。もし壊してしまったらどうしよう、財布にお金はあっただろうか。身を固くする私に、「返すのは何時でもいいです。時間がある時にでも、またこの場所で」と優しい声が降る。そう言ってくれるのは有難いが、この場所で待つのは御免蒙りたい。私は元カレと絶対に顔を合わせたくないのだ。去ろうとするその手を慌てて掴み、引き留める。


「れ、連絡先!交換、してください…」


お願いします、と頭を下げる私は必死だった。元カレに会ったら何を言われるかわからない。たとえ何も言われなかったとしても、その姿を見ただけで私の精神が甚大なダメージを受けることは確実だ。何か事情を感じ取ったらしい彼は私に頭を上げさせ、そんなに畏まらなくても大丈夫だからと言いながら頼みに応じてくれた。傘のこともそうだが、本当に優しい人だ。見ず知らずの人にこんなに優しくされたのは初めてかもしれない。じんわりと心が温まって、頬が緩む。私の口から自然に「ありがとう」と感謝の言葉が零れた。少し驚いた様子を見せた彼は、すぐに柔らかな笑みを浮かべる。


「どういたしまして」


そう言って去っていく背中が見えなくなるまで、ずっと見つめていた。冷たい雨は変わらず降り続けているというのに、身体はちっとも寒くない。触れた頬は不自然に熱くて、まさかそんな馬鹿なことはないだろうと思う反面、何かを確信している自分がいた。携帯を覗けば、新しい友達の欄に表示される「源田」の文字。星のボタンを押して、お気に入りのグループに追加されたそれを指でそっと撫でる。借り物の傘の下で高鳴る鼓動は、小さな小さな恋だった。

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -