ミズノ | ナノ

「ねえ、タクトくん」

澄んだふたつの瞳の奥に何を映しているのだろう。そのやさしい声で一体誰の名を呼ぶのだろう。僕の名を読んでは、くれないだろうか。きみは僕の心を簡単に掠っていってしまったくせに、僕の声には応えてくれないんだね。きみの僕へのやさしさはきっと違う。きみがやさしいのは、きみがやさしい人間だからだね。心残りなのは、もっと僕がきみを大好きな気持ち、伝えたかった。多分、伝わってなかったと思うから。大好きだよ、きれいなあかい瞳も、瞳と同じ色の髪も、つよい眼差しも、僕の名を呼ぶやわらかい声音も、やさしいところも、真っ直ぐなところも。きみのこと、大好きだよ。きみの良いところ百個見付けるのだって、僕はさらりとやってのけてみせるのに。

「どうしたの、ミズノちゃん」

きみが振り返る。僕の長い前髪が風に揺れて、一瞬だけきみを隠した。こうしてきみが僕の名を呼んでくれるだけで、胸の真ん中あたりが急にくるしくなっちゃって、それを自分ではどうしようもできなくて、僕の本当の気持ちはますますきみには伝えられない。ぶくぶく沈んで、僕さえわからない深いところに消えちゃったら楽になれるかな。こんないたい気持ちにならなくて済む?でも、簡単には捨てたくないなあ。嘘の笑顔だけが上手になっていく。嘘でつくられた世界は幻。

「ふふっ、何でもない。呼んでみただけ!」
「?」

きみが好きになる女の子はきっと、とっても可愛いんだろうな。やさしくって、周りに気が遣えて、すっごくいいこなんだろうな。わかってる、大丈夫、ちゃんとわかってる。ワコちゃんもきっと、タクトくんのことが好きだから。だから二人はきっと、きっとね、

「タクトくんは 誰かをすきになったこと、ある?」
「え」
「僕は、あるよ」

きみを見付けるのが得意なこの両目も、きみの声を確かに掬い上げる両耳も、きみに会えると跳ねる心臓も、時々恨めしくはなるけれど、僕の立派な自慢だよ。初めて好きになったのが、きみで本当に良かった。そうやってしっかり目を合わせてくれるところも、やっぱり好きだなって、思うよ。拍子抜けしたようなきみの表情に僕は笑って、それからタクトくんの肩に額をくっつけた。みっ、ミズノちゃん。上擦った声さえもなんだか可笑しくて、僕のちいさな胸はきみへの気持ちでいっぱいになる。お願い、今だけ。今だけはきみに、ふれていたい。

二人きりのベランダからは ほら、色んな景色が見えるね。隣にきみがいるからかな、いつもより澄んで見える南十字島の町並みは、キラキラ光ってすごくきれい。やさしい世界に心が洗濯されてゆくみたい。このままずっと二人でいたいって、そんなことを思ってしまうよ。ちくりと胸がいたむ理由も今ならわかる。僕とタクトくんが見ている景色は、きっと同じじゃないだろうから。

「タクトくんは、僕の呪文をしんじてくれたよね」
「…覚えてるよ」
「うん。大丈夫の、呪文だよ」

僕、この気持ちずっと、忘れたくないよ。きみのことが好きな僕を、きみのおかげで好きになれたよ。さよならも、こわくないって思えるよ。

「…ミズノちゃん」
「うん?」
「もう暗くなるから、帰ろうか。家まで送るよ」
「…うん、」
「ミズノちゃん?」

きみの髪が海の風に揺れる。きれいな夕陽だよ、タクトくん。視界が滲んでよく見えないや。鼻の奥がつんとして、目頭が熱くなった。ワコちゃんになりたいだなんて一度も思ったことないよ。ワコちゃんがうらやましいと思ったことは本当を言うとたくさんあるけれど、涙だって数えきれないほど使ったけれど、呼び捨てだってして欲しったけれど、ただ、僕はね

「やっぱり帰るのは…もう少し後にしよっか」

はっとして顔を上げれば、やさしい瞳とかち合う。きみが天使みたいに笑っていて、馬鹿みたいにやさしい目をしていて、だから、だから。今だけは、とてつもない力を持った大魔王様。タクトくんの前で泣いてもいいですか。涙が枷を失ったように溢れ出す。ころころと頬をすべっていく涙に、タクトくんはオレンジ色だねって微笑んだ。夕陽と同じ、オレンジ色。それから水色のハンカチを僕に渡して、ごめんって、かなしそうにもう一度微笑んだ。それでいいんだよ、タクトくん。きみが涙を拭ってあげる女の子は、僕じゃない。

きみがくれたやさしさを、僕は大切に持ち続けていくよ。本当に本当に、きみのことが好きだったよ。

イノセント・ブルー
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