わたしがいなくなることをこわがったりしないで。大丈夫、ずっとそばにいて、その手をつよく握っていてあげる。くちべたなのは知ってる、だから大丈夫、わかってる。寂しさに揺らぐ瞳を、わたしは見逃したりしないよ。

「なあに」

彼の穏やかな声の響きを、頭の中で何度も反響する忘れられない甘やかな感覚を、そのやさしい空気の振動を、わたしは何度も何度も愛おしいと思う。慈しんで、指先で触れて、両手でそっと包み込んで、瞼に閉じ込めて、それからね。それから、あなたとキスがしたいな。しあわせだよと言って涙をこぼしたあなたの頬にふれたいの。あんまり胸がせつなかったから、わたしもしあわせだよと彼に伝えることができなかった。ただ涙がこぼれた。抱きしめる腕の力がやさしくて、たどたどしくて、涙がこぼれた。あなたは強くなんかないの、とっても弱虫なの。わたしなんかよりずっと寂しがり屋なのをわたしは知ってるよ。しあわせに疎いことがこんなに悲しいことを、あなたに出会って始めて知った。ねえいま、カカシはしあわせ?そう聞くのはまだ少しだけこわいから、心の奥にしまっておくね。

「どうしたの、眠いのかな」
「…ううん、ちがうよ」
「かお、見せてくれないの?」

胸元に顔をうめてカカシから離れないわたしの髪を、彼は子供をあやすような手つきでするりと梳いた。やさしい声がこぼれて耳に届く。彼の着ているシャツはもうわたしのせいでくしゃくしゃ。

「もし、カカシが」
「うん」
「わたしのことを、すきじゃなくなったら、」
「うん」
「それはすごく寂しいことだけど、わたしはそれでもずっと、ずっとね、カカシのことすきでいたいの」
「…うん」

以前わたしは、彼に一度告白を断られている。だからこうして彼と寄り添えるようになったのは二度目の告白からだった。すきなの、と、彼に告げたとき。あのときの彼の表情を今でも鮮明に覚えている。不思議なかおをしていた。どうして何でと、説明し難いことの理由を聞きたい子供のような目をしていた。かなしい声をしていた。おれはいまのままがいいよ、そう言われて、わたしは彼の顔を見れないままごめんねと返した。困らせてごめんね、そんな顔をさせてしまってごめんね。寂しい気持ちを伝える術を知らない彼の手を、わたしが握ってあげたかった。伏せた瞳にわたしを映して欲しかった。ただ告白があんなにつらいものだなんて、知らなかった。すきだなんて言わなければよかったと何度思っても、時間を取り返すことはできない。わたしはあのときひどく後悔をしたの。後悔をする自分にも、わたしは悲しかった。ごめんなさい、だけど許して欲しい。あのときのことを思い出す度にどうしようもなく悲しくなるわたしを、許して欲しい。

「カカシにはじめてすきって言ったときのこと、わたしよおく覚えてるの」
「…おれも覚えてるよ」
「ほんとう」
「うん」
「どうしてあんなこと言っちゃったんだろうって、たくさん後悔したんだよ」
「…おれは、なんでこんなおれをって、思ったよ」

顔を上げる。カカシは変わらず、やさしい目をしていた。彼の指に髪を一束すくわれて、ゆっくりと耳にかけられる。ちいさく息を吸う音が聞こえて、わたしの胸はとくりと音をあげた。思わず胸のあたりを手でおさえる。ぎゅうっと心がいたむのはきっと、カカシがかなしいひとだから。握りしめた手を咎めるように、わたしの手を彼の掌が包み込む。そっと手を解かれる。背中を丸めてわたしの肩にそっと額を預けた彼は、ささやくように呟いた。

「こわかった」




「こんなおれを…すきだなんて言うから」

あのときのあなたを、きっとわたしは一生忘れないで生きてゆく。自分をゆるすことのできなかったあなたは、わたしのことを信じることができないとそう言って、ごめんとちいさく謝った。いまのままがいいと、変わりたくないと、切に表情を歪めるあなたに、わたしは為す術もなくただ頷いた。

「探しても見付からないんだ。おまえがおれをすきだっていう理由が、わからなくて」

自分にやさしくすること、自分を大切に思うこと、労り時には泣くことを、彼はゆるさなかった。ゆるしてはいけないと、ずっと戒めていた。その鎖を解こうとのばしたわたしの手を、カカシはそっと押し返したのだ。わたしはただひたすらに、彼のかなしみをわかりたかった。彼をひとりにしたくなかった。わたしがそばにいたかった。

「おれは、自分のことがきらいだったから」

二度目の告白。せめてそばにいたいとわたしが泣いたとき、カカシはわたしを抱きしめてくれた。周りが見えなくなるほどに、うれしかった。わたしを抱く腕が弱々しいのさえも愛しいと思った。やさしいあなたをやさしさで包むのは、わたしがいい。「泣かないで」彼は瞳にうっすらと涙の膜をはりながら、そう言った。「泣かないで、」繰り返し、繰り返し、何度も。「泣かないで、カカシ」今度はわたしが、彼の冷たい頬に触れた。「しあわせだよ」彼は静かに涙を落とした。

「でも、いまは」
「…うん」
「いまはそんなこと思わないんだ、どうしてかな」

どこかうれしそうに、照れ臭そうに言葉を紡ぐ彼の頬に触れる。それは、誰かのしあわせが自分のしあわせにもなり得るのだと気付くことができた証拠なんだよ。わたしがしあわせだと、ねえいつもカカシは微笑んでいるでしょう。カカシがしあわせならわたしだってそれがしあわせなの。これってとってもしあわせなことなんだよ。涙がでるくらい、しあわせなことなんだよ。だからねカカシ、あなたがそんなふうに笑えるようになったのは、

「カカシがわたしのことを、すきになったからだよ」



エーテルの在処

title クロエ