すやすやと眠っている彼は普段よりずうっとおさなくみえた。ヘアセットされていない髪、無防備な寝顔、ちいさな規則正しい寝息。いとおしい。きれいに切り揃えられたつめのかたち、無骨な手指、呼吸に合わせゆっくり上下する肩、彼のすべてが、いとおしかった。わたしの名前を呼ぶ、やさしくてまあるい声を思い出して、そっと耳にてのひらで触れる。耳に残るこの声が、いつもわたしを突き動かしている。
・・・・・
「迎えに来ましたよ!もう!またこんなになるまで飲んで。」
個室を覗くとそこには頬を赤らめた二階堂大和、逢坂壮五、十龍之介の三人が掘り炬燵を囲んで座っており、テーブルには日本酒の一合瓶が何本も並んでいた。逢坂は既に突っ伏して眠りこけてしまっている。睫毛が濡れているのは、泣いたからだろうか。彼の背中をさすっている十はちいさく頭を下げ微笑んだ。お猪口を片手に二階堂がへらりと笑う。
「そんなこわい顔しなさんな。」
「大和さん、先週から三回目ですよ。」
「わかった、悪かったよ。それより今日のソウの可愛い話聞く?」
「帰ったら聞きます。十さんもご迷惑おかけしてすみません。」
「迷惑なんてそんな!こちらこそ、壮五くんに飲ませ過ぎちゃってごめんね。」
午後十一時半、事務所でパソコンとにらめっこしていると、小気味好くスマホの通知音が鳴った。ラビチャを開くと、二階堂から送られてきたのは二階堂、逢坂、十の三人が写っている写真だった。すぐに電話をかける。麻布十番なら二十分あれば行けるだろう。ポケットの中に車のキーがあるのを確認してすぐに事務所を出た。二階堂からこういった類の写真が送られてくるときは、迎えに来て欲しいというメッセージなのだ。写真のなかの二階堂は自撮りしたからなのか顔が半分しか写っておらず、奥の逢坂は笑顔で十に抱きついていて、困ったように笑う十が壮五をためらいがちに受け止めているような、そんな写真だった。駐車場に向かう途中、もう一度ラビチャを開き先ほどの写真をしっかりスマホに保存した。
「ほらソウ、自分で歩こうな。」
「んん…。」
二階堂と十が逢坂を支えやっとの思いで車内に押し込む。逢坂の隣には十が乗り込み、助手席には二階堂が座った。
「ごめんね、おれまで送ってもらっちゃって。」
つつがなく逢坂のシートベルトを締めた十は自分のシートベルトも締めつつ、申し訳なさそうにきれいな眉をさげた。
「なに言ってるんですか。いつも可愛がっていただいて、ほんとうにありがとうございます。」
「ありがとうございまーす。」
「大和さん!」
軽口をたたく二階堂をたしなめると後部座席の十がからからとおかしそうに笑った。
・・・・・
寮に着き二階堂と十が二人掛かりで逢坂を自室に運び込むのを見届け、玄関でひらひらと手を振る二階堂に早く寝るようにと釘を刺す。車の前に立つ彼に駆け寄り、右手に持った車のキーを揺らした。
「お待たせしました。行きましょうか。」
「いや、ここからはタクシーつかまえるよ。」
「送らせてください。散々お世話になっておいて、十さんだけ置いて帰れません。」
「こんな時間に女の子を…、」
「十さん。」
折れないわたしに、彼は観念したようにちいさく笑う。既に酔いがさめたのか普段の精悍な顔付きに戻っていた。
「助手席にお邪魔してもいい?」
こんなときにも、律儀な彼におかしくなってしまう。
「はい。」
つられて笑顔になる。車のロックを解除し、車に乗り込んだ。
・・・・・
彼とのおしゃべりは、ちいさな秘密のようだった。幼い頃の家族との思い出、最近のメンバーの失態や、お気に入りの衣装のこと。ひた隠しにしてきた気持ちを抑えるようにゆっくりと話す。気付かれないように。暗い車内で、背もたれに頭を預け窓の外に目をやりながら、わたしのはなしに微笑んだり目を細めたりする彼は、深夜のかすかなひかりのなかでいやに大人びてみえた。
混じり気のない物言いや、やわらかな声色や、おだやかな言葉選び、彼から伝わるものすべてが、わたしにはやさしかった。この熱を逃がすには、どうしたらいいの。あ、もうすぐだよ。彼がつぶやく。道順をさす彼の指示が的確だったのもあり、彼のマンションまでの道のりはあっという間に過ぎた。
「ありがとう。助かったよ。」
路肩に寄せ、停車させた車内で彼はふわりと微笑む。おしまいの合図だ。
「いいえ。こちらこそ遅くまですみませんでした。」
「そんなことないよ。おれも楽しかった。二人をおこらないでやってね。」
彼のことを好きだと気付いたわたしから、既に半年はゆうに経っていた。少しづつ惹かれていっていることに気付かないふりをしていた。こわかった。取り乱したり、傷付いたり、この気持ちのせいで歯車が狂ってうまくまわらなくなってしまうことが。迷惑になるだけの気持ちならと、そう、ふたをしたはずなのに。ふたりきりになれてうれしいなんて、思ってはいけないの。平然としていなければ。あなたの知っているわたしにならなければ。唇をかむわたしに気付き、彼はこちらを見つめて黙っていた。
透けているんだ。そう、思った。
「…あの、」
「うん?」
車内は暗く、彼がいまどんな表情をしているのかさえ良くわからなかった。わかるのは、声がやさしいことだけ。エンジンのとまった車内はいやに静かで、もう逃げる場所などどこにもない。どうして待っていてくれるの。彼はわたしの次の言葉を待っている。まだ、いっしょにいたいと、そう言えたら。呼吸がはやくなっていく。だめよ、迷惑になる。やさしい彼は困ってしまうだけだ。わたしの気持ちなど、不必要なもの以外の何物でもない。
「…ごめんなさい、あの…、おやすみ、なさい。」
やっとの思いで絞り出した声は、情けなくふるえていた。ほんとうのことなど、伝えられるはずがなかった。喉の奥がからからに乾いている。きっと、彼はわかっていた。わたしのことを、きっと。
「お父さんは、心配してない?」
「…え、」
「こんな時間になっても帰らないきみを、心配してるんじゃないかな。」
「あ…、父は、わたしが成人する前までは過保護でしたけど、わたしももう二十三ですし、半年くらい前から一人暮らしをしているので。」
「…このあとは?」
「車を戻して、そのまま事務所に泊まります。今日はもともとそのつもりだったんです。事務仕事が溜まっていて…、」
どうしてそんなことを、聞くの?顔を上げると、彼と目が合う。暗がりでもわかる。知らない表情をしている。カチャ、シートベルトを外す音が耳に届いた瞬間に、わたしの左腕を彼の手のひらがつかまえて、彼のほうへ引き寄せられた。
「降りて。」
彼の部屋まではお互い黙って歩いた。隣を歩くのはしのびなく、少し後ろを着いて行く。ある部屋の扉の前で立ち止まったので、続いて足を止めると、彼はポケットから鍵を取り出し、そしてそうっとこちらを振り返った。彼は、不安げに、長いまつげをかすかにふるわせた。
「ごめん、…いやだった?」
胸がつまった。あんまりせつない声だったから。どうしてそんな、そんな声。
「おれは男だし、怖くて断れなかったなら、謝る。さっきは…、強く言っちゃってごめん。後悔して欲しくないんだ。きみが今少しでも、怖かったり、迷っているなら、ちゃんと家まで送る。…あ、駄目だ、お酒飲んでる…。」
言葉じりはちいさく消え入りそうで、たどたどしくて。うなだれる彼の右手にそっとふれる。肩がちいさく揺れ、目をおおきくしてこちらに向き直る彼は、車内でわたしの腕をつかんだときとは別人のようだった。誠実で、うそがなく、やさしい人。知っている。あなたの、尽きないやさしさがまぶしくて、好きになった。屈託の無い笑い声も、他人の為に本気で憤ることも、隔ての無いやさしさも、わたしにはとてもまぶしくて、あなたのことを考えると涙が出るくらい、好きになった。
「十さん、わたし…、」
勇気がなかった。彼の仕事、わたしの立場。あなたの足枷になるくらいなら、消してしまいたかった。
「…待って。おれ、」
「いや、はなして。」
手首にふれる熱を振り払う。
「待って、言わ、」
「またない、すき、すきです、十さん、…っ、すきなの…っ、」
言葉にすると涙があふれた。
オートロックが解除される機械音が耳に届くと同時にドアが開き身体が引き込まれる。くるしいくらいに、あたたかかった。彼の腕が、呼吸が、こんなにもそばにある。彼の腕に抱かれることがこんなにも、こんなにも胸がくるしいなんて。
「…泣かないで。」
余裕のない表情。うすくひらかれた唇は、ちいさな声でわたしの名前をつぶやいた。
「ほんとうは、少し前から気付いてた。自惚れかもしれないと思ってたけど…、言わせてしまってごめん。おれから、言いたかった…、でも、きっと体裁を気にして、拒まれると思ったから…。こわかったんだ。」
勇気がなくてごめん。そう言って、彼はわたしの肩に額をくっつけた。浅い息遣いに、彼の緊張が伝わる。背中にてのひらをまわし、ぎゅうと抱きしめた。シャツが皺になってしまうのもかまわずに、涙でぬれる頬もそのままに。すこし汗をかいている熱を帯びた背中が、誰よりもいとおしかった。
「わたしのほうこそ、迷惑になるって…っ、」
「迷惑なもんか、こんな…」
「十さ、」
「こんなに一生懸命伝えてくれたのに…、」
「………」
「こたえたいよ。」
声にならないほど、うれしかった。受け入れ、一途にひたむきに、こたえたいと願う彼の大切なものを、ひとつずつ知ってゆきたい。おおきな身体で、やさしいこころで、たくさんのものを守っている彼を、わたしが誰よりも大切に思ってゆきたい。彼の大切なものたちを、一緒に守りたい。
「ずっと好きだったんだ。」
彼の言葉に、わたしは何度も、何度も、うなずいた。