午後15時過ぎ、毎週日曜に家庭用の切り花を買って行く御婦人を見送り、店内に戻ろうとしたときだった。その日は雨が降っていて、客足もまばらだったのでいつもより長くおしゃべりに花を咲かせてしまった。明日の注文の確認をして、夜来店されるお客様の花束を作ってしまわないと。花束のイメージを膨らませる。頭の中で様々な色の花がせめぎ合う。

「あの、すみません。」

傘を差したスーツ姿の男性が、店先に立っていた。


・・・・・


「そんなところにいたら濡れます。」

しとどに濡れた右の肩口を、いまだ傘の端からこぼれた雨粒が染み込む様をほうっておけず、屋根のあるところまでとっさに彼の腕を引いた。仕立ての良い紺色のスーツはしっとりと水分を含み、この雨の中長時間外にいたことが伺えた。心なしか顔色が悪い。腕を引くと素直に屋根の下に足を進めた彼は、ゆっくりと傘を閉じおずおずと店内を見回した。

「申し訳ありません。あの、何かお探しでしょうか。」

目を泳がせる彼につられるように、なんだか落ち着かなくてそっと腕まくりをした。そんなふうに居心地が悪そうにされると困ってしまう。色素の薄い髪がふわりと揺れた。

「お客様…?」
「…は、花を」
「は、はい。」
「花束を、作って頂けませんか。」

悪かった顔色は今度はほんのり赤く染まっており、何かを決心したように口調は強いものに変わっていた。恋人に贈るのだろうか。

「もちろんです。お相手の方は女性の方ですか?ご用命などはごさいますか?」
「あ、いや…、」

きっと花屋に来たのも初めてなのだろう。せっかく真っ直ぐに目が合ったのに、たじろぎ目線をそらす仕草をするので、自然と口元がほころんだ。緊張して花屋に訪れる男性は少なくない。なかにはこなれた客もいるが、大半の恋人に贈る花束を買い求める男性はこだわりがなく任せてくれるので、可愛らしく控えめな淡い色の花を選び仕上げれば大抵はほっと胸を撫で下ろすような顔をするので微笑ましかった。

「お好きなお色味やお花がありましたらお気軽に…、ふふ。わたしにお任せ頂けますか。お相手の方がどのような方か教えて頂ければ、イメージが膨らむんですけど。」
「…よく知らないんです。うーん…優しそう…かな。」
「ありがとうございます、十分ですよ。良かったら店内のお花たちをご覧になってお待ちください。すぐにお作りします。」

まずはカスミソウ、バーベナ、フリージア。ナデシコをいれてあげたら可愛いかな。桃色に薄いむらさき色、白を足して、ビバーチェは控えめなピンク、リボンはやわらかなベージュ。彼の意中の優しい雰囲気の彼女が、よろこんでくれますように。

「お待たせしました。」

出来上がった花束を彼のもとへ。ずいぶん愛おしそうに花を見るのね。腰を屈め、手書きの説明書きを熱心に読んでいる姿がうれしかった。わたしが書いたものだから。

「わあ。」

腕の中を覗き込んで彼はふんわりと微笑んだ。

「素敵だ。」

花束に顔を近付け香りを確かめる仕草に、彼の優しい色の髪がふわふわと揺れるのが可愛らしい。大人の男性にこんなことを思うなんて失礼ね。満足そうに表情をやわらげた彼はありがとうと笑った。お会計を済ませ、彼を見送ろうと店先で花束を渡す。お礼を言うと、こちらこそとまたやわらかく笑った。けれど彼は黙ったままなかなか立ち去ろうとしないので、首を傾げる。

「あの、お客様…」
「僕、向かいの広告代理店で働いてるんだ。良かったら、連絡ください。」

名刺を差し出され、反射的に受け取ってしまう。まあ、なんてこと。いつの間にか左の肩からすべり落ちてしまっていたエプロンの紐に触れ、そっと彼が直してくれた。

「本当は渡したい相手なんていないんだ。理由が欲しかった。ごめんなさい。」
「そんな…、」
「今日はありがとう。これは僕の部屋に飾ります。じゃあ、また。」

名刺を持ったまましばらく何も言えずにだんだん小さくなる彼の背中を見つめていた。こんなに素敵なことがあるなんて。会社名と、彼の名前。本当にお向かいの会社名が明記されている。それと、裏には携帯の電話番号の走り書きがあった。

「善法寺 伊作…」

その夜、お風呂を済ませた後勇気を出して彼にショートメールを送ったときのことを、今でも鮮明に覚えている。何せ本当に緊張したんだから。


・・・・・



「いやなの?」
「…うん。」
「僕は好きだよ。」

彼に声をかけられてから何度か一緒に食事に行くようになって、何度もデートをして、知り合って半年で恋人になった。彼は花屋で働くわたしを一年ほど前から知っていたらしく、揺れるポニーテールが気になっただの、あのときは一生分の勇気を使っただのと、今となっては笑い話のように出会ったばかりのことをよく話した。屈託無く笑う彼にすぐに惹かれ、意外とおしゃべりな優しい彼がすぐに大好きになった。

「もういいでしょ。」

手を引くと、手首をつかまれぐいと引き戻されて、人差し指に唇を軽くくっつけられる。仕事柄、水をさわることが多いわたしの手はあかぎれだらけ。それに乾燥してかさかさ、つめもちっともきれいなんかじゃない。出会った頃は彼と手を繋ぐのが嫌で、傷付きたくなくて、理由を言いたがらないせいでよく彼を傷付けた。

「頑張ってる手だ。」
「やだったら…、」

彼の部屋の合鍵を三日前にもらってから、今日は初めて彼のいない部屋に一人で入り、夕食を作って彼の帰りを待っていた。彼のために料理をするのがこんなに楽しいことだなんて知らなかった。海老の殻むきだってまったく苦じゃないわ。今夜の献立は、海老とブロッコリーのトマトクリームパスタ、シラスとカリカリ油揚げのサラダ、タコと鳥ささみのマリネ。ぺろっと平らげてくれた彼をもっと好きになった。

彼はいつもわたしの手を好きだと言う。嫌いだと言うわたしがどんどん小さくなっていっている気がするよ。あんまり、好きだとそう言うから。だってこの手は、あなたに触れたらきっと痛いよ。もっと、ほら、きれいにネイルを施したきらきらの指先や、ふっくらとやわからかな白い手の甲や、そういう手のほうが素敵でしょう。女の子の手って、そうあるべきよ。

何度嫌がっても、彼は根気強くわたしの手を好きだと言った。

「わからないなあ。どうしてそんなにいやなんだい。」
「何度同じこと言わせるの。こんなささくれだらけの手、そんなこと言うの伊作だけよ。」
「それはいいや。」
「もう。」

けらけらと笑う彼は相も変わらずわたしの手を握ったままで、ほだされてしまいそうになる。ずっと見ないふりをしてきたこの手を、好きになりたいと思うわたしがいる。

「そうだ。今日はお土産があるんだった。」

わたしの髪をやさしく撫ぜて、おもむろにソファから立ち上がり廊下へと消えた彼が腕に抱えて持ってきたものは、ダリアの花束だった。八重咲きの、鮮やかなピンクと白のダリア。彼に初めて作った花束のことを思い出した。春の花たち。ドアの前で微笑む彼は、あげる、と言ってわたしに花束をそっと渡した。ダリアはほとんど香りがしない。けれど、ああ、綺麗。頬ずりをしたいくらい。ダリアは八重咲きが一番好きよ。

「…花をもらったの、生まれて初めてだよ。」
「それは良かった。」
「今日、何かあるの?」
「何もないさ、ただ、きれいだなと思って。」

人生で初めてもらった花束が彼からもらったものだなんてうれしくて、見慣れたはずのダリアの花がとびきり特別なものにみえた。もう花屋に行くこともお手の物のようね。

「ありがとう。うれしい。」
「僕もうれしいよ。そんなによろこんでくれて。」

隣に座り直し、彼はそっとわたしの肩にもたれて緊張した、とちいさくつぶやいた。あんまりいとおしくて、目をつむる彼のまぶたにそっとふれる。口元が綻びくすくすと笑う唇にキスをすれば、がばっと起き上がった彼に花束ごと抱きしめられて、そうやってなんでもない日の特別な夜が更けていくの。あの日あなたに花束を作ったことを、ずっとずっと忘れないよ。



ゆめみるあのこ


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