目が覚めると、慣れないあたたかな体温が隣にあることに胸が少しくるしくなった。そう、昨日彼はこの部屋に泊まったのだ。深い寝息をたてて眠る彼をそのままに、そろりとベッドから抜け出しフローリングに落ちていたカーディガンを適当に羽織りキッチンへ。ケトルに水を入れ、スイッチをオンにする。彼が先に目を覚まさなくて良かった。ドリップコーヒーをマグカップにセットして沸いたお湯を静かに注ぐ。ふわりとただよう香りに気持ちが落ち着いた。コーヒーはブラックが好きだ。ミルクも砂糖も、必要ない。

彼はいつも朝をどのように過ごすのだろう。朝食は、ご飯に味噌汁、それともパン?コーヒーは飲めるの。目玉焼きと卵焼きは、どちらが好みなの。食べないという選択肢もあるかもしれない。ヨーグルトとコーヒーで済ませてしまうことが多いけれど、この日ばかりは目が覚めてしまったし、出勤の時間までまだ余裕があるので、鍋に火をかけじゃがいもと玉ねぎの味噌汁を作った。お米をとぎ、炊飯器のスイッチをいれる。目玉焼きは彼が起きてから作ろう。あたたかいほうが、良いと思ったから。

昨日は職場の懇親会という名目の、ただの飲み会だった。酒に酔った彼を無理やりタクシーに押し込んで、とにかく出してくださいと運転手に告げた。住所はと聞いても、君の家に先に行ってと頑なな彼に折れて自分の住所を伝え、結局わたしのマンションの前まで一緒に来てしまった。言わないんだもの、自分の住所を。

「うちに泊まりますか。」
「…いいの?」
「もう、こんな時間だし、二人とも明日仕事でしょ。」
「ほんとうに。」
「いいよ。ソファで寝るなら。」

熱いコーヒーにくちをつけながら、タクシーの中で交わした会話を思い出していた。きっとわたしも酔っていたんだ。自分から彼を誘うなんて、普段のわたしなら考えられない。マンションのエントランスに入ろうとすると軽く袖を引かれ、煙草吸ってから行く、と言われ少しだけエントランスで彼を待った。部屋に入る前も、玄関で消臭剤を見つけるとそれを手にとりやり過ぎではと言いたくなるくらい全身に吹きかけて、これでいい?と笑うので、思わず吹き出した。可愛いと思った。

結局一緒のベッドで眠ることを許したのはわたしが彼に惹かれていたからで、後悔はしていない。不思議と緊張はしなかった。彼はわたしを背中から抱きしめ、おやすみと言った。あたたかな彼の体温が心地よくて、わたしもすぐに眠りについた。

「…おはよう。」

ベッドから上半身だけを起こした彼がこちらを見ていた。起きたのね。昨日の夜、あまくやさしく笑っていた彼はそこにはいなかった。眉をひそめて唇をきゅうと結んでいる。やわらかな雰囲気はどこにもない。わたしはすぐに気が付いた。彼は後悔しているのだと。わたしと、一晩過ごしてしまったことを。

「おはようございます。」

コーヒーのはいったマグカップを持ったまま、ベッドに腰掛ける。彼はきれいに目を伏せた。ながいまつ毛がかすかに影を作っていた。何もしていないのに。キスも、セックスもしていない。ただ、同じベッドで眠っただけなのに。嫌だったのかな。ほんとうは拒みたかったのかな。無理やり、引き止めてしまったのかな。

「…シャツ、洗濯しておきました。今、乾かしてるから…あと30分くらいで終わると思う。」
「…ありがとう。」
「朝はちゃんと食べる人?」
「いや、」

一度も目を合わせずに、彼は浴室へ行ってしまった。使っていないバスタオルを脱衣所におき、歯を磨いた。くるしくて、少し涙が出た。朝食の心配など要らなかった。あと5分で炊飯器のタイマーが鳴ることに気付いて慌ててスイッチを切った。浮かれていた自分が恥ずかしい。彼は早くここから立ち去りたいのだと思った。もたもたしてはいられない。自分は昨日の夜シャワーを済ませていたので、彼がシャワーを浴びている間に髪を整え化粧をして、スキニーパンツとカッターシャツに着替える。鏡の中のわたしはひどい顔をしていた。今にも泣き出しそうなのを我慢していることなんて、聡い彼にはきっと気付かれてしまうだろう。彼が罪悪感などに苛まれないといいけれど。

「バスタオル、ありがとう。」
「…いいえ。」
「もう着替えたの。早いね。」

声は優しいけれど顔は笑ってはいなかった。いたたまれなくて、彼が髪を乾かしている間、彼のシャツを乾燥機から出しコードレスのアイロンでシワを伸ばす。ぱりっとしたシャツからは、かすかに彼のにおいがした。ベッドに残る彼のにおいも、仕事から帰る頃には消えているだろう。いいの。それでいい。

「ありがとう。何から何まで。」
「何もしてないよ。」
「…僕は自分のワイシャツのことなんて忘れてたよ。」
「よれよれのシャツなんて着て出社したら誰かにからかわれるでしょ。」
「…かもしれないね。助かった。」
「わたし、少し遅れて行きます。斉藤さんは先に行ってください。」
「じゃあ、駅までは一緒に行こうか。」

昨日と同じ彼のネクタイに気付く人など誰もいませんように。彼に迷惑がかかるのは嫌だった。同じタクシーに乗ったところを社内の何人かに見られている。駅までの道のりは五分程度。その間、彼とは一言も言葉を交わさなかった。ただまっすぐに歩く彼の隣をほんの少しだけ遅れて歩いた。こんなに外は晴れていて、こんなにも太陽の光はまぶしくもあたたかいのに、上を向いて歩けない。もう少しゆっくり歩いて。お願い。置いていかないで。

「じゃあ、またあとで。」

彼の顔を見れずにこくりと頷く。電車に乗り込む彼に軽く頭を下げ、ドアが閉まるのを見届けてからホームのベンチに腰掛けた。電車、二本くらい遅らせればいいかな。ああ、どうして。こんなことになるなら別のタクシーに乗って、無理やり住所を聞き出して、運転手に彼を預けてしまえば良かった。軽率に部屋にあげるなんて、考え直せば良かった。いくら後悔しても、彼の苦しげに眉をひそめたあの表情が忘れられなかった。彼が好きだった。ずっと、好きだった。




彼、斉藤タカ丸は勤め先の直属の上司であった。歳は29。わたしの6つ年上の彼は、穏やかでいつも笑っているような男で、誰にでも分け隔てなく優しい、そういう人だった。高い身長にきれいな色の髪、仕事も出来る。社内では数少ない独身であったため、女子社員の人気の的だった。わたしも、彼に惹かれている平凡な女の一人だった。何度も彼に助けられ、仕事の相談にのってもらい、わたしを気にかけてくれていた。部下だからだと、わかっていたのに。

普通に、普通にしなければ。だって何もしていない。いつも通り挨拶をして、会議の資料を確認してもらって、次の打ち合わせの内容をワードに書き起こしてまとめて…。出社し、今日の仕事内容を思い浮かべつつ給湯室でコーヒーを淹れていると、きっと喫煙室へ向かうのであろう彼と彼の同期である綾部の声が聞こえてきた。思わず息をのんでしまう。

「昨日はずいぶんと飲んでたようだったけど。」
「あはは。おかげさまでまだ少し頭が痛いよ。」
「ちゃんと家に帰れたのかい。」
「…もちろん、ちゃんと帰ったよ。」

遠ざかる声にほっと胸をなでおろす。昨日の夜のことは忘れなければ。彼の腕の逞しさもあたたかさも、愛しい寝息も、全部、全部よ。忘れなければいけない。すべてなかったことにしなければ。彼がきっとそれを望んでいる。






「こんな時間まで残ってるなんて感心しないな。」

仕事中パソコンが突然ログオフしてしまい、飛んだデータを必死に打ち込み直していると背中から聞き慣れた声がした。振り返ると、そこにはむつかしい顔をした斉藤タカ丸が立っていた。はっとして時計に目をやると午後22時に差し掛かるところだった。デスクにかじりついていたせいで気付かなかった。いいえ、それよりも。なぜ彼が今ここに。心臓がうるさい。

「すみません。もうすぐ終わるので…戸締まりはきちんとして帰ります。」
「そうじゃないよ。もう帰りなさい。送っていくからはやくパソコンを閉じて。」
「でも、」
「僕が来なかったら何時まで残るつもりだったの。確かにそのデータは週明け必要だけど、朝僕ときみで修正すれば十分間に合うよ。」

珍しく有無を言わせぬ物言いをするので、何も言えなくなってしまい、結局彼の手によりパタンとノートパソコンを閉じられてしまった。はやくと促され慌ててジャケットに腕を通し鞄を肩にかけた。帰り支度をするわたしを横目に彼はにこりと笑った。

「おなかすいてないかい。」

昨日の夜、わたしに微笑んだときと同じ表情の彼がいた。







「昨日はごめんね。」

会社のすぐ近くにある個人経営の居酒屋に二人で入り、カウンターに並んで腰掛けた。戸惑ってしまう。なぜわたしを誘うの。退社したはずの彼がなぜこの時間に戻ってきたのだろう。聞きたいことはたくさんあったけれど、喉の奥がからからに乾いてうまく言葉に出来なかった。なにより、彼の気持ちを聞くのがこわかった。一杯だけ、と頼んだ生ビールのグラスをお互いにカチンとくっつけて、一口飲んだその瞬間、彼はわたしを見ずに謝った。それは、何に対する謝罪なのだろう。

「どうして謝るの?」
「…突然きみの家に押しかけて、一緒のベッドで寝るなんて軽率な行動をしたと思って。」

一方通行なのはわかっていた。わたしが彼に抱くような感情を彼は持ち合わせてはいない。ずっと一緒にいたから知ってるの。きっと昨日の夜、タクシーに乗ったのがわたしではなく別の女だったとしても、同じようなことにきっとなっていたのよ。謝られると、苦しいよ。

「わたしが誘ったんだから斉藤さんが謝ることない。誰にも言わないから安心してください。実際、何もなかったし…」

もうこれ以上何も言わないで。何も言わせないで。好きじゃないと言われているようであんまりよ。何も思っていないから勘違いするなと言いたいのでしょう。ビールのグラスを両手でぎゅうと握りしめていた。冷えすぎたグラスのせいで手が痛い。

「どうしてそんな言い方するの。」

顔を覗き込まれ、とっさにうつむいた。やさしい声に目頭がじんわりとあつくなる。あなたこそ、どうしてそんな声で話すの。グラスを握る手にそっと彼が触れて、そのまま手首を掴まれ濡れた手のひらに小さく折りたたまれたハンカチをあててくれた。顔をあげるとやさしく目尻を下げて微笑む彼と目が合った。

「だって、後悔してるんでしょ。」
「ああ、してるよ。もちろん。」

なによ、それ。ニッコリ笑って言う台詞なの。ばかにしてるの。かまうもんかと握らされたハンカチでこぼれた涙を拭った。ファンデーションがついてしまうかも、頭の隅っこで思ったけれどそのまま涙と鼻水を拭った。頭にくる。けれど、怒りよりずっとずっと、悲しい気持ちの方が大きくて涙がとまらない。

「…後悔してる。昨日の夜、眠ってるきみにキスした。」
「ーーー…。」

真っ直ぐに見つめられて、はらはら涙が頬をすべるのもおかまいなしに、彼はハンカチを握ったままのわたしの手にもう一度触れた。彼は、もう笑ってはいなかった。

「最初はソファで寝ようと思ったんだよ。でも無理だったんだ。きみの部屋着姿が可愛くて。Tシャツにショートパンツなんて初めて見たから驚いた。当たり前だけど。おろした髪も可愛かった。だから…」

ぎゅうっと手首に触れる力がつよくなる。

「きみをこういう目で見ちゃいけないって自制してたんだ。きみは可愛い後輩だって。付き合ってもいないのにこんなことして、悪かったと思ってる。順番をとばしちゃったから後悔してるんだよ。好きなんだ。だから泣かないで…。」

ここは居酒屋よ。個人経営の小さな居酒屋のカウンターでなにを言うの。これ以上わたしを泣かせたくないならもうなにも言わないで。どうしたってとまらない涙なの。ハンカチを顔に押し当てやっとのことで口を開いた。ふるえてしまって、ひどい声。

「朝、あなたがこわかった…。きっとこんなことになって後悔してると思って、わたし…」
「ごめんね、違うんだ。ここが僕の部屋だったら今すぐ抱きしめてるのにな。」

彼の言葉に驚いて、身体があつくなった。好きなんだ。彼、わたしのことが好きだと言った。

「同じ気持ちだと思っていいかい。」
「じゃなきゃこんなに泣かないよ。」
「ちゃんと言葉にして。」

ガタッ。急に立ち上がったわたしに驚く彼をそのままに、カードでお会計を済ませ、彼と自分のジャケットを腕に引っ掛け彼の腕を引き店から出た。店員の顔を思い出すだけで恥ずかしいけれど今はかまわない。目をまんまるくしている彼に向き直り静かに息を吸った。言いたかった。伝えたかった。

「好きです。」

言葉にすると涙があふれた。彼の親指が頬を拭う。優しかった。触れ方も、息遣いも、ぜんぶ、ぜんぶ。

「…今朝、わたしが洗ったシャツだね。」

シャツの袖口に触れるとすこし顔をあからめた彼が可愛くて、愛おしくて、この人でなくてはと思った。コホン、わざとらしく咳をしてみせた彼はわたしの手を引きゆっくりと歩き出した。わたしの歩幅を気にしてくれているのが伝わる。

「今日は金曜日なんだけど、週末の予定を教えて。」
「何もないよ。冷蔵庫のなかが空っぽだから買い物に行かなくちゃ…それくらいかな。」
「じゃあ、僕と一緒に過ごして欲しい。買い物も付き合うよ。どこにだって行こう。後輩に奢ってもらいっぱなしなんて嫌だからね。」

少し急げば終電に間に合うかもしれない。けれど逃したっていいの。きっとどうにかなるって思えるの。明日は土曜日で、彼が一緒にいようと言ってくれている。よごれてしまったハンカチはきちんと洗って返すから、怒らないでやさしくゆるしてね。





週末の約束





2016.4.14
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