「コーヒー、飲めるかしら?」
「あ、いえ…。」
「じゃあ紅茶は?」
「…すみません。」

台所の奥から彼女がくすくすわらう声が聞こえる。なんとなく居心地がわるくて、やわらかなソファに座り直した。かすかにジャスミンのかおりがするまっしろな壁紙のこの部屋で彼女が生活しているのだと思うと、自分が今ここにいることが急にとても悪いことのような気がしてたまらなくなった。こぽこぽとポットの湯が沸騰する音。カチャリと小気味良く鳴るマグカップの音。部屋を見渡しては行けない気がする。いつの間にか手に汗をかすかに握っていた。情けない。ふれてはいけないと思う。よごしてしまう気がして、こわしてしまう気がして。

「ココアなら飲める?」

にっこり笑う彼女がそっと目の前に白いマグカップを置いた。ふわりとたつ湯気があまいかおりをのせて鼻先をくすぐる。気恥ずかしくてすこしうつむいた。コーヒーも紅茶も苦手だなんて子供だと思っているだろう。

「ありがとうございます。」
「いいのよ。」

立ったままの天方にはっとして立ち上がる。そのままソファの脇に慌ててずれて軽く頭を下げた。

「すっすみません。座ってください…!」
「ふふふ。橘くん、となりに座ってもいいかしら。」
「はっ。ど、どうぞ。っていや、違、あの。」

彼女はマグカップを両手で持ち二人がけのソファの右側に腰掛ける。空いているその場所。こくりと息をのんだ。覚悟も勇気も、からだじゅうあちこちから必死にかき集めたとして、足りないことは知れている。そこに座ることはできない。こちらを見つめている彼女の表情にはやさしさがにじんでいて、落ち着きのないおれを微笑ましいとでも言いたげだった。笑みを浮かべるくちもとに期待なんてするな。おれはこんなに彼女から、壁を、距離を、感じ取ってしまって仕方ないのに。

「おれ、やっぱり、…ここで大丈夫です。」
「フローリングはつめたいでしょう?」
「大丈夫です…今日、すこし暑いから…。」

目も合わせられない。言葉尻が小さくなってしまう。居心地がわるいのは彼女がそうしているからか、自分の気持ちの問題なのか、それさえもわからない。彼女が別人のように見えるのだ。ふと、開けられた窓からふわりと風がふいてクリーム色のカーテンを揺らした。花のにおいがする。ベランダでなにか育てているのだろうか。母親の趣味で花には多少詳しいほうなので、少し気になり目をやるとそこには、小さな鉢植えにむらさき色のトレニアがきれいに咲いていた。手入れの行き届いた、きれいなトレニアだった。

「おうちの人には、連絡したの?」
「あ、はい。」
「遅くなるって?」
「えっ?いや、そんなこと…っ。」
「冗談よ。」

けらけらと笑う彼女にかき回されて、歩き散らされて、言葉が見つからずに押し黙ってしまう。わらうと目尻がさがって、普段よりずっと幼くみえた。可愛いと、そう思った。おれを自分の部屋にあげるだなんてこの人は何を考えているのだろう。教え子と境界線を引いているからできるのか、踏み込ませない自信がるのか、おれに度胸がないのを知っているのか。何を考えているんですか。先生。

「緊張するね。」

彼女の言葉に思わず肩がちいさく揺れた。顔をあげる。彼女と目が合う。きっと頼りない表情をしてしまっていた。唇をかむ。緊張なんてしていないだろう。そんなふうに笑わないでくれ。いなすような言葉を向けないでくれ。いたたまれなくなってココアの揺れるマグカップに手をのばしのどの奥に流す。

「ぁっつ…!」
「橘くん…!大丈夫?」

目尻にかすかに涙がたまる。きっと火傷をした。心配そうに揺れる目の奥のいろがきれいで、潤したばかりの喉は簡単にからりと渇いてはりつく。手の先が少ししびれている。がきくさい自分がきらいで、どうしようもなかった。

「おれは、緊張してるけど、」
「……」
「先生は違いますよね。」

彼女はおれと同じじゃない。そう、意図せずおれに分からせている。拒みもしない、受け入れもしない、ただゆるやかにおれの熱がおさまるのを待っている。ずるいやり口だ。マグカップをテーブルに戻し視線はまたつま先に逆戻り。こっちを向いて欲しい。一時的なものだなんて決めつけないで、幼い熱だとこわがらないで、全部をゆるして欲しい。

「橘くん」
「…あの、おれ、帰ります。」
「もう、帰るの?まだ来たばかりじゃない。」
「でも、明日も朝から部活だから。」

立ち上がり、そばに置いてあったリュックを肩にかける。ベランダに咲くトレニアを横目に、ソファに腰掛けたままの彼女を見下ろし軽く頭を下げた。彼女は何も言わない。何かを言いたげにうすい唇を微かに動かしただけで、そっと長いまつ毛をふるわせた。きれいだ。伏し目がちの彼女の色素のうすい髪が、かけられていた片耳からさらりと落ちた。その、髪を耳にかけ直すしぐさがきれいで、胸がつまる。違う、だめだ、この部屋から早く出なければ。

「橘くん、」

玄関でスニーカーを履いていると後ろから遠慮がちに声をかけられて、ドアノブにのばしかけていた手をひっこめる。決意が揺らぐ気がしてすこしいらだった。頭を埋め尽くす焦燥感に支配される前にここからいなくなりたいのだ。

「あの、…また、来てね。」
「………」
「今度は何か食べて行って。あとで好きな食べ物教えて欲しいな…いいかしら。」
「先生、」

振り返ると眉を下げて照れくさそうにわらう彼女が立っていた。顔がかあっと熱くなる。うれしくて、くちのはしっこがゆるんでいくのがわかる。隔たりを感じていたのはおればかりだったはずだ。からからにかわいた唇はうまく言葉をつむげずに、言いたいことは全部のどの奥に置いてけぼりになってしまう。

「あんまりゆっくりさせてあげられなくてごめんなさい。」
「そ、んな。」

口もとを手のひらでおおって思わずうつむく。ここからいなくなりたかったのに。彼女から離れたかったのに。こんなみっともないおれで、彼女と会うなんて嫌だった。橘くん?言葉尻が上がった彼女の不思議そうな声が降ってくる。うれしくて笑ってしまう。彼女の言葉がうれしくて思いきり幼い表情のまま、彼女の細くてしろい手首をそっとつかんだ。この気持ちがぜんぶあなたに伝わったらいいのにって。繕ったって見透かされるならこのままのおれで彼女に向き合いたい。制服を着たままのこどもだってあなたみたいな人を好きになるんだって。

「先生、」

おれはやっとほんとうの声で彼女を呼ぶ。




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