「あっちいって」


いつだったかだいすきなのとわらって話してくれたうすみどり色の絵本を、彼女がこちらに向かって投げた。投げたといっても、ちいさくほうった程度で、私に届きもしなければ痛くもない。けれど、いたい。彼女が怒るのも、無理はなかった。絨毯の上におちたそれを拾いソファのはじっこでうずくまる彼女の前に膝をつく。さわったらきっと、もっとこわいかおをするだろう。


「話をしましょう」
「いや」
「かおをみせて」
「いや!」


ずっと、ずっと前から、約束していた。この日は休みをもらうこと。仕事をいれないこと。彼女とこの部屋で、過ごすこと。キッチンには使いかけのドライフルーツと、計り、それとミキサーがおいてあった。洗浄機のなかにはボウルやふるいがひしめき合っている。ドライフルーツのたっぷりはいったパウンドケーキが、テーブルの上に冷ましておいてあった。いっしょに作ると約束していたもの。うまく焼けている。冷めているのでにおいはあまりしなかった。


「いやだ、でてって。ここにいないで。どこかにいって」


泣きながら彼女は目をこすった。いつもならやめなさいと腕をつかむのに。それが今はできない。電話もメールも、会いたいもさみしいも、ぜんぶ飲み込んでわらっているようなひとだった。約束をやぶったのはこれが一度目じゃない。そのたびに仕方ないねとつくりわらいをさせていた。けれど今日は、今日だけは。いっしょにいてあげたかったのに。今日は彼女の、うまれた日だから。


いっしょにケーキを焼いて、昼食をつくり、新しく買ったおそろいのランチョンマットをつかって食べて、いっしょにお風呂にはいり、紅茶をいれてケーキを食べよう。夜ははやい時間にベッドにはいって、すこしだけお酒を飲みながら電気を消しておしゃべりしよう。彼女が誕生日に欲しいもの。なにもいらないと言った。欲しいものなんてなにもない。トキヤくんがおうちにいてくれたらそれでいい。普段の多忙を謝りたいほどに欲のない彼女に力が抜けたのを覚えている。朝の10時、彼女がこの部屋に来る時間。玄関で迎えるはずだった。お誕生日おめでとうございます。そう、いちばんに言うはずだった。事務所から電話が来るまでは。


ケーキの材料はわたしが買っておくね。トキヤくん、ドライフルーツ好きだから、いっぱいいれてパウンドケーキつくろう?
わたしフライパンひっくり返すの苦手なんだ。だからトキヤくんにまかせた!
このバスボールいいにおいなの。きっとトキヤくんも気に入るとおもうなあ。ね、つかってもいいでしょう。
はなしたいこと、たくさんあるの。


今日を彼女がとても楽しみにしていたことをいちばんよく知っているのは自分なのに。自分の誕生日に私の好きなものがはいったケーキをつくることないだろう。いちごが好きなんだから、ショートケーキを作ればよかったのに。帰宅できたのはその日の22時だった。部屋に戻るとリビングは真っ暗で、彼女はソファに座っていた。携帯を握りしめて、こっちを見ていた。メールをいれたのは朝の7時。謝罪と、いつ帰れるかわからないこと。返信はなかった。


「きらい、きらい・・・っ。出てってよおっ」
「ほんとうに悪いことをしました。何度謝っても、・・・足りないくらい」
「・・・・・・」
「聞いてください。歌の仕事がはいったんです。どうしても蹴れなかった。生放送の歌番組でした。私が欠けてはいけなかった。言い訳に聞こえるかもしれないけれど・・・きみをおもって歌いました。泣いているかもしれないと・・・気がかりで・・・」


声がふるえた。こわかった。きらいなどと言われたのは初めてで、それが感情的なものであろうとも、たとえ一時的なものであったとしても。そうっとかおをみせた彼女はひどいかおをしていた。どれだけ泣いたのだろう。きっと何も食べていないのだ。見たことのない髪型はすこし崩れてしまっている。あたらしい洋服。こんなにも気付いているのに言葉にできなくて、ずっとひとりにしてごめんね。ごめんね。頬に、彼女のてのひらがふれる。目が合う。ぽろぽろこぼれる涙は膝におちて、あたたかなまあるい染みをいくつかつくった。


「ごめんね、トキヤくん」
「・・・・・・」
「こういうとき、わらって、いいよって、言えるようになりたい・・・。ごめんね、おかえりって言わなくて。おつかれさま。つかれたよね・・・ごめんね。謝らせちゃって、ごめん・・・」


抱き締められて気が付いた。泣いていること。トキヤくん泣かないで。耳元で声がする。とん、とん、と肩のあたりに彼女がやさしい力でふれた。やさしいこの人にふれていると、自分までやさしくなったような気になってしまう。ゆるされることがつらかった。作るはずだったボロネーゼ、本当は練習をしたんです。格好がつかないので言わないけれど。新しいバスタオルも買いました。彼女がつかうもの。ほんとうはずっと、泣いてしまいたかった。ここ、すわって。促されて隣に腰掛ける。膝にあたまをのせたがったので、したいようにさせた。絵本を手渡す。彼女は人差し指でそれを撫でて、ごめんねとそっとつぶやいた。


「花束を買ったんです。黄色の、チューリップの」
「見つけちゃったよ、次はもっと上手に隠して」
「・・・すみません。せっかくきみの誕生日なのに、こんな私で・・・」
「こんなじゃないよ。お仕事頑張って、わたしのために花束までくれて、わたし、とってもうれしいよ。お花屋さんに行ってくれたの?うれしいなあ。ありがとう。」


それに膝まくらなんて、いつもしてくれないじゃない。そう言って、さっきまで泣きじゃくっていた彼女はけらけらわらっている。トキヤくん。トキヤくんがお花屋さんで花束つくってもらってるとこ想像しちゃった。もうそんな軽口をたたくから、おでこをぺしり。きゃっと楽しそうな声をあげる彼女。いつもこんなにもゆるされて、私と彼女の関係は成り立っている。


「トキヤくん」
「・・・誕生日おめでとうございます」
「うん。ありがとう。トキヤくん」


これからだって遅くないよ。誕生日なんていいの、特別な日が欲しかった。トキヤくんがおうちにいる、特別な日が欲しかったの。深夜にケーキと紅茶なんて素敵でしょう。いっしょに眠ることだってできるでしょう。何度だってわらいたい。彼がつらいおもいをしないで済むように。だから、たまには会いたいって駄々をこねることもきっと必要なんだね。ドライフルーツたっぷりのこのパウンドケーキ、砂糖はつかってないんだよ。あまさの秘密ははちみつだから、きっとトキヤくんも気に入るよ。


「紅茶はミルクがいい?レモンがいい?」


うえからやさしい声が降ってくる。ながれぼしみたい。わたしがこれからしたいことなんてほら、お見通しだね。





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