※アイドル音也くんと水族館デート


11時に○△駅に待ち合わせ。急に不安になってiPhoneを取り出し慌ててメール画面を確かめる。間違ってなかった。ほっ。昨日何度も確かめたのだから当たり前なのだけれど、メール画面には今日の日付が映し出されていた。今からこんな調子で今日一日を乗り越えられるのだろうか。とてつもなく不安だ。メールが来たときは本当に夢心地だった。音也くんとこうやって二人で会える日が来るなんて信じられなかった。デートなんて、考えたこともなかった。何度も鏡を見て確かめた髪型と服装とお化粧。きっと大丈夫。これがわたしにできる、精一杯のお洒落。きっかり10分前に駅に着いたわたしは、待ち合わせの場所にもう既に彼がいることに気付く。彼を見つけた途端笑顔になるのが自分でもわかった。まだ11時じゃないよ、音也くん。早めに来てくれてうれしい、ありがとう。腕時計を見ている音也くんに早く気付いて欲しくって、わたしは小走りで彼に駆け寄った。シフォンスカートが揺れる。

「あ!」

顔を上げた音也くんと目が合う。それからこちらに向かってぶんぶん手を振って、おっきな声でわたしの名前を呼んだ。手を振り返す。ちょっと恥ずかしい。だけど、すごくうれしい。一瞬でやさしい目になる。すぐにわたしを見つけてくれる。人目も気にせず名前を呼んでくれる。音也くんはそういう男の子なんだ。音也くんといっしょにいると自分に自信が持てるの。誰にも言ったことないけど、彼に引っ張られているこの感覚がとても好き。

「音也くん、早いねえ」
「うん、待ってたかったから!」

にっこり笑った音也くんがえへへって小さく首を傾げた。つられてわたしも笑顔になる。彼の纏う空気に触れると心がすうっと撫でられたように落ち着いた。出会った頃から変わらない。穏やかになれる。音也くん、私服かっこいいなあ。ワックスつけてないんだね。ぺったんこの髪も似合ってる。髪型をつくっていないほうが、実は好き。わたし今日、この人の隣を歩けるんだ。やっぱり夢みたい。わたしが音也くんの隣を歩く女の子でいいのかな。そんな考えが頭にちらついて、慌ててだめだめ!とネガティブ思考を頭の隅っこに押しやった。今日はそういうこと考えないって、昨日寝る前に決めたでしょう。お仕事が忙しい彼がやっともらえた貴重なお休みを、わたしのために使ってくれる。うれしいけれど、少し申し訳ない気持ちは否めなかった。黒い淵のだて眼鏡で隠れてはいるけれど、目の下の隈にわたしは気付いている。寝不足なのかな、疲れてるの?ちゃんと寝てる?ちゃんと食べてる?会わないうちに音也くん、ちょっとやせた?

「おれ実は水族館って行ったことないんだ」

はじけるような声が一瞬でわたしを引き上げる。はっとして隣の彼を見上げれば、眼鏡の奥でおおきなふたつの目がゆらりと揺れた。わたしに向けられている視線がとても、とてもやさしかった。わたしだけがうつっていた。違う、違うんだ。音也くんの貴重なお休みの日だからわたしがこんな気持ちでいちゃいけないんだ。だって音也くんが楽しくなきゃ、わたしだって楽しくない。きっとその逆だってあるもの。たくさんたくさん、楽しいって思って欲しい。笑って欲しい。今日わたしといてよかったって、思い出して欲しい。

「えっ、そうなの?」
「うん。だから楽しみ、水族館」
「あのね、いろんな魚がいっぱいいるの。イルカとかもいるんだよ」
「…それくらいはおれも知ってる!」
「ふふふ」

むって怒った顔をつくる彼に軽く体当たりをする。わあ、なんて言う割りには声がうれしそうだよ。可愛くってしょうがないの、全部ぜんぶ。可愛いなんて言ったら今度は本気で拗ねちゃうから言わないけれど、やっぱり可愛いって思わずにはいられないの。つくった表情はすぐに笑顔に変わる。彼がわたしの袖をくいと引っ張って、切符の販売機を指差した。

「切符買う?」
「ううん、Suica」
「おれもSuica。じゃ、行こっか」
「うんっ」

・・・・・


「みて!すっげーよあれ!エイの上にちっちゃいサメ乗ってる!」
「あはは、ほんとだ」

「このイルカのキーホルダー可愛い。欲しい…」
「…音也くんって可愛い」
「うん?」

「なあ!イルカショー13時半からだって!」
「ポンチョ買わなきゃぬれちゃうみたい。ほらここ、注意書きあるよ。どこに売ってるのかなあ」
「おれ、ぬれたい!」
「えっ」

はしゃぐ彼にわたしもうれしくなる。水族館、本当に初めてなんだなあ。初めて来たときのようにわたしも楽しいの。何度も来たことがある場所なのにどうしてこんなに違って見えるのかな。きらきらしてる。全部がきらきらしてる。音也くんがいるだけで目にうつるすべてが違って見える。音也くんも楽しいかな。楽しいって思ってくれてると、いいんだけどな。

「(…これは、本格的に痛くなってきたかも)」

それにしても、足が痛い。気になっていた足元に視線を落とした。始めは微かな違和感しかなかったのに、今は歩くたびに小指が痛い。靴擦れしたかもしれない。いや、この痛みは靴擦れしかない。どうしてパンプスなんて履いてきたんだろう。少しでも女の子らしく見えるようにって、普段あまり履かないパンプスを靴棚の奥から引っ張り出してきたのがいけなかった。じんじんしている小指に何かできるわけもなく、いつも持ち歩いてる絆創膏だって今日は鞄が違うから持ってきていない。絆創膏や酔い止め薬が入っているポーチは家に置いてきてしまった。音也くんに言えるはずもない。歩くの、すごくつらい。脱ぎたい。裸足になりたい。しかも両足の小指。片方だったら我慢できたというわけでもないけれど、両足は少しきつい。

「…聞いてる、?」
「へあっ?」
「え、あ、その、どうかした?しかめっ面…してたけど」
「えっ、うそ、ごめんなさい」

彼がすっとわたしの顔を覗き込んで、微かに眉を下げた。三角のかたちの、水のトンネルの中だった。上も下も横も、水とたくさんの魚たち。心臓がバクバクしてる。うわ、わたし今、音也くんの話これっぽっちも聞いてなかった。へんに思われて当然だ。とっさに謝ってしまった。わたしは言葉が見つからず、ただつま先に視線をおとす。

「もしかして、足痛い?」
「う」
「あ、違ったらごめんね。でも、歩き方が…」

そう言ってわたしの目と足元を交互に見やった後、ちがう?ってやさしい声で促される。やさしい声だった。悲しくもないのに、泣くほどの痛みでもないのに、涙が出そうになった。気付いてくれてうれしい。心配してくれてうれしい。だけど駄目、いやだ、気付かないで。言わないで。こんなの平気なの、我慢できる。だから言わないで。わからないままでいて。

「だっ、大丈夫!あのね、久しぶりにパンプス履いたからちょっとへんな感じがして、気になってただけなの。だから、大丈夫」
「…ほんとに?」
「うん」
「痛くない?」
「大丈夫だよ、ありがとう」
「そっか、よかった」

無意識にへんな歩き方してたのかな。全然わからなかった。普通に歩かなきゃ。ちゃんと、歩かなきゃ。繋いでいる彼の手に思わず力を入れてしまいそうでこわい。音也くんはやさしいから、わたしが靴擦れしてるなんて知ったらきっと帰ろうって言うんだ。わたしを心配する彼の気持ちより、彼といっしょにいたいわたしの我儘がいい。痛い思いをするより、彼とバイバイするほうがずっと嫌なんだ。自分勝手だけれど、本当のことだ。

三角のトンネルを抜けておおきな水槽がある少しひらけた場所に出た。薄暗いから、上からあてられているライトに水槽の水がきらきら光ってすごくきれい。水槽にもっと近づきたくて、一歩前へ出る。途端に痛みが走った。痛い、すごく痛い。駄目よ、これからもっとたくさん歩くんだから。こんなの平気だ、まだ歩ける。でも、やっぱり。痛い。
あ…、
ぎゅうと音也くんの手を握ってしまったことに気付く。あんまり痛くて、自分でもわからないうちに力が入ってしまった。ぱっと手を離す。どうしよう、わたし。こんなのへんだ。どうして手を離したの、おかしいよ。どうしてと問われても説明できない。彼と目が合う。あんまり見たことのない、表情。もう、笑ってはいなかった。傷ついたような、怒ったような、どちらともつかない、そんな表情。

「…いたいかお」
「え?」

小さなつぶやきが彼の唇からこぼれる。わたしはそれをうまく拾えなかった。なんて、言ったの。どうしようもなく心臓が早鐘を打つ。手を引かれる。有無を言わさぬ声だった。胸の奥でそっと覚悟をした。

「こっち、来て」
「お、音也くん」
「ここ、座って」
「…どうしたの?」

声が、こわい。

「靴脱いで」
「えっ」
「だから、靴」
「へ、平気だよ、わたし、」
「いいから脱いで」

うつむいている彼がわたしを隅っこのベンチに座らせて、目の前にしゃがみ込んだ。彼は軽く唇を噛んでいた。表情がわからなくて不安になる。どんな顔をしてるの?下を向いたままそれきり何も言わない彼に、もうごまかせないと観念してかかとに手をかけた。パンプスを、脱ぐ。

「…まっかになってる」
「……」

ストッキングの上からでもわかるくらい、あかく腫れてしまっていた。水ぶくれになってしまっている箇所もあった。とす、軽い空気の音が耳に届く。少し距離を開けて、彼がわたしの隣に腰掛ける。人一人分はあるだろうわたしと彼との距離が、つらかった。

「なんで黙ってたの。おれ、聞いたじゃんか。足痛いのって」
「…おと、やく」
「こんな足でずっと…」
「違う、わたしが勝手に」
「痛かったでしょ、ごめん、おれたくさん連れまわして」
「違うよ!」

わたしのおおきな声に肩が揺れたのは彼のほう。こっち、向いて。下向かないで。眼鏡の奥でゆらゆらしてる目をつかまえて、わたしのほうを見てって裾を引っ張る。涙が出そう。だけど今は違う。言わなきゃ伝わらないことだってあるもの。

「だって、帰ろうって言われると思ったの」
「そりゃ言うよ!こんな足じゃ歩くのつらいに決まって…」
「っ、…」

やっぱり。やっぱり言うんだね。即答されて胸がつまる。音也くんはいいの?だって今さよならしたらきっともうずっと会えない。わたしはまだ、まだ音也くんといっしょにいたいんだよ。前に会ったのだっていつだったか、音也くんは覚えてないんでしょう。わたしがどんな気持ちでいたか、想像してみてよ。

「痛くても平気だもん」
「平気なわけないだろ、何言って…」
「いっしょにいたい、」

わたしの消え入りそうな声に、彼が息をのんだのがわかった。彼もわかってるんだ。なかなか会えないことを、わたしに申し訳ないと思ってるんだ。だからこんなこと言いたくなかった。言っちゃいけないって思ってた。でも今日は嫌だよ、いっしょにいたいよ。

「まだ、いっしょに…」

何度も電話でごめんねを聞いた。来週撮影が入ったんだとか、どうしても断れない仕事で明日は会えなくなっちゃったとか。たくさんの仕方のない理由を何度も聞いた。彼は何度も謝ってくれた。わたしはその度に彼に仕方ないよと笑った。わたしが彼をゆるした後に携帯越しに聞こえるほっとしたような声が、いやだったの。会いたかったんだよ、ずっとずっと、会いたかったんだよ。音也くんに会いたかったの。やっと会えたのに、帰ろうなんて言わないでよ。

「もっといっしょにいたい」
「…痛い思いしても?」

必死にうなずく。

「帰ろうって言われるのが、こわくて。だから靴擦れも我慢してた」
「おれは、痛い思いをさせてるの…いやだよ。すごく痛そうだったもん、足」
「痛いけど、ものすっごく痛いけど、帰ろうなんて言うなら痛くない。音也くんと、いっしょに、」
「…う」
「いっしょにいたい、っうう、音也く」
「もっ、もうわかったから!」

いつの間にか涙がぼろぼろこぼれていた。顔をあかくした音也くんが口元を手でおおったままわたしにハンカチを差し出す。ちょっとためらったけれど素直にそれを頬に押し当てた。やさしい洗剤のにおいがした。余計に涙が出た。

「じゃあ、ここにタクシー呼ぶ」
「え」
「知ってると思うけど、おれの家、ここから近いから」
「えっ、え?」

今度顔をあかくしたのはわたしのほうだ。隣で彼が背筋を伸ばし座り直す。それからすっと立ち上がってどすんとわたしのすぐ隣に腰を下ろした。縮められた距離にわたしは少しのけ反ってしまう。膝の上に律儀に両拳を置いて、肩にものすごく力が入っているのが見てとれた。音也くん、緊張してるんだ。胸の奥がぎゅっとなる。わたし、自分勝手だった。もし音也くんが痛いの我慢してたら自分ならどうなの?いやに決まってる。そんなの絶対いやだもん。彼があんなこわいかおしたのだって当たり前だ。器、小さいなあ。

「おれだって、そう思ってるよ」
「…うん」
「思ってないわけないだろ」
「う、ん」
「…部屋着いたら絆創膏はってあげる」
「ストッキング脱ぐの?」
「えっ」

あわあわしている音也くんの二の腕に、たまらなくなって鼻先をくっつけた。そのままそっと体重をかける。しばらくして大人しくなった彼が、おずおずと、わたしに軽く体重をかけてくれた。うれしかった。足元に脱いだパンプスが転がっている。もう、恨めしいとは思わなかった。わたしはもう笑ってる。足は変わらず痛いけど、こうして笑っていられる。

「…ごめんね。おれ…なかなか、会えなくて」
「いいの。わたしこそごめん、あの、泣いたりして」
「それは…全然…、おれのせいだし」

謝ってるくせに、二人とも笑ってた。声の響きがやさしかった。伝わるあたたかさがわたしの波立った気持ちを鎮めてくれているようだった。手の甲に、彼の指先がとんとん、と触れる。タクシー呼ぶ?と聞かれて、こくりとうなずいた。音也くんは笑って、ポケットからオレンジ色の携帯を取り出す。

「出てくるとき部屋きれいだったかな…」
「いいよ、きたなくっても」
「だっ、駄目だよそんなの!」

肩に額をすり付ける。彼のにおいで肺を満たしたい。音也くんの声がする。焦ったような、そんな声。お願い、聞こえない振りさせて。まだくっついてたいの。ちょっと会えないくらいでべそかいて情けないよね。ごめんね、大好きなの。ごめんね。よわいわたしを、ゆるしてね。



とハピネス

もう泣かないなんて約束は守れそうにないけれど、これからは音也くんの前で泣く。

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