アイドルトキヤとマネージャー女の子

   

「あの、トキヤくん。…大丈夫?」
「何のことですか」
「朝からずっと具合悪そうだったから…、今も顔色わるいよ」

彼は端正な顔をほんの少し歪めて、それからちいさくため息をついた。きちんとセットされた前髪が揺れる。手にしていた台本をテーブルの上に置いた彼が、代わりに先ほどわたしが買ってきたコーヒーを手に取った。ひとくち飲んだあと、しかめつらのまま「別になんともありません」とつぶやく。きっとわたしがこう言えば、彼がこういう表情をするのはわかっていた。迷惑に思われるだろう、気付かれたくなかったのだろう、と。我慢できなかった、彼が無理をしているのは一目瞭然だったから。多少の無理は彼の仕事柄つきもの。けれどトキヤくんは違う。歌うことが好きだから体の負担も気にならないんだ。歌に盲目になっているんだ。でも、気付いて欲しい。きみが思ってるよりずっときみの体は疲れてるんだよ。お休みが欲しいなんて絶対に言わない彼だから、わたしが彼をどうにかしてあげたいって、そう思うのに。彼に近付く。目の下のうっすらと残る隈も、熱っぽい目もやっぱりわたしの思い違いじゃない。

「顔、あかいよ。わたし今からコンビニで薬買ってくるから、何か欲しいものとか…」
「なんともないって言ってるじゃないですか」
「トキヤくん」
「もう出て行ってもらえませんか。集中できないので」
「…でも、」
「いい加減にしてください」
「あ…」

やさしいのに、突き放すような声にわたしは簡単にひるんでしまう。もう、何も言えなかった。トキヤくんが心配なの。こんなことを言えばまた嫌な顔をされてしまう。嫌な顔をされたって強く言わなければいけない立場なのに、彼の体調を気遣わなくてはいけないのに。何も言えなくなるのはこれ以上自分が傷つきたくないと思うからだ。真に受けて落ち込む自分が嫌だからだ。わたし、少しでもトキヤくんのために何かしたいの。こっちを向いてくれない彼にごめんなさいと謝っても、何も返っては来なかった。

笑ったかおが、好きだった。テレビや雑誌のなかの彼はいつだってかがやいていて、普段の彼とじゃずっと違って見える。仕事のときの笑顔だってそうだけど、仕事が終わったあとに見せる少しほっとしたような笑顔も、おはようございますって楽屋に入ってくるちょっとだけ眠たそうな笑顔も、ぜんぶ好きだった。けれどそれはモニター越しか、他人に向けられたものしかわたしは知らない。笑って欲しいといつも思っていた。楽屋から出て静かにドアを閉める。どうしてきらわれちゃったんだろう。いつ、きらわれることしたのかな。何か原因があるのかな。わからない。だって、おせっかいしちゃうよ。好きだから誰よりずっと気になるよ。わたし、トキヤくんに何かした?悲しかった。わたしはいつも頑張っている彼のことがとても好きだから。


・・・・・



結局トキヤくんの午後の仕事はすべてキャンセルになった。午後からのラジオ収録の際にプロデューサーに見抜かれたのだ。彼は続けることを主張していたけれど、収録は後日でも可能ということだった。たくさんの関係者の方々に叱られながら、わたしは何度も謝って頭を下げた。なぜ気付けなかったんだと言われ涙がでそうだった。そうだ、わたしが彼の体調の変化に気付いた朝よりずっと目に見えて悪化していた。もう一度言えば彼も折れてくれるかもしれなかったのに。ここまで具合が悪くなることもなかったかもしれないのに。彼を放っておいたのはわたしだ。誰にも何も言わず、ただ見ていただけだった。

タクシーを二人で待つ間、彼は何も話さなかった。ただ時折軽く咳をして、ため息をつく以外は。自分自身に苛立っているんだと思った。気がたっている人のそばにいるのは昔から苦手だった。

「…トキヤくん、あの、」
「ひとりで帰れますので、もうしごとに…戻ってください…」
「え、」
「熱もそんなに高くないですし、…私はだいじょうぶ、ですから」

コートの襟元をぎゅっと手繰り寄せて彼はわたしを見ずに言った。トキヤくんの言い方にカッとなって思わず彼の手首を掴む。やめてよ、もっと自分を大切にしてよ。そんな、しゃべるのもつらそうなのに。もっとわたしを頼ってよ、いなくても大丈夫だなんて言わないでよ。そりゃわたしは役に立たないしトキヤくんの邪魔してばかりだけど、だけど、それでもそばにいたっていいでしょ。トキヤくんの心配したっていいでしょ。泣きそうだ、けれど、泣くもんか。びくっと揺れた肩もお構いなしに珍しく大声を出していた。

「こんなときにまで何言ってるの」
「このくらい、へいき、です」
「だめ、送る」
「…っ私はほんとうに」
「黙って大人のいうことききなさい!」
「…は、はい」

わたしに一喝されてから彼はすっかり大人しくなってしまって、彼のマンションに着く頃には二人とも黙りこくっていた。大人って、わたし。今更大声を出したことを後悔していた。トキヤくんと五つしか離れてないくせに何言ってるの。という具合に。マンションのエントランスまでは来たことがあるけれどドアの前まで来るのは初めてだった。ましてや、その、彼の部屋に入ることなんて。けれどきちんと寝るところまで確認しないと帰れない。自分のことには滅法疎い彼だから。今にも崩れてしまいそうな体を支えてなんとかドアの前に立つ。

「トキヤくん、鍵…どこ?」
「ん…バッグの、いちばん…はじの…」
「わかった」

腕を支えて歩かせる。ドアを開け足を踏み入れるとそこは本当に生活感のない部屋だった。寝ることにしか使っていないんだと思う。後から冷蔵庫を見たら水しか入っていなくて驚いた。こんなことだろうとは思っていたけれど、流石にこの環境は体調も崩すだろう。キッチンなんて使っていないから新品みたいにきれいだ。

「あの、…」
「うん?なあに、トキヤくん」
「すみ…ませ…」

それが泣きそうな、絞り出すような掠れた声だったから。なんにも悪くないのにどうして謝るの。トキヤくんが謝るようなことひとつもないんだよ。わたしは彼の広い背中をゆっくりとさすった。大丈夫だよってこどもをあやすように。ちいさな頃お母さんにしてもらったように、やさしく、やさしく。変われるなら変わってあげたい。くるしいのはトキヤくんのほうだ、わたしじゃない。

「…謝らなくっていいんだよ」

コートを脱がせて彼をベッドに押し込む。布団をかけてあげると、眉間にしわばかり寄せていた彼はようやく安堵の表情を見せた。頑張ってたんだもんね。自分のために努力してたんだもんね。でもたまには自分の体、休ませてあげなくちゃ。つらいのは自分なんだよ、トキヤくん。ベッドのそばに膝立ちになって、布団で覆われた胸のあたりをとんとんとやさしく手のひらでふれる。

「ねむっていいよ」
「…はい」
「おやすみ、トキヤくん」

ろくに寝てないの、知ってるからね。


・・・・・



「…ん、」

ふっと瞼を開けた彼は、まだぼんやりとした表情のまま何かを探すように視線をさまよわせた。わたしと目が合うと、トキヤくんはすっと目を逸らす。少し、傷つく。寝たと言ってもたったの二時間弱ほどだ。薬を飲ませたら帰ろう。ずっとそばにいたら、きっと彼だって迷惑だ。本当は彼がよくなるまでそばにいたいけれど。本当は、帰りたくないけれど。

「どうかな、少しはよくなった?」
「はい、…先ほどよりは」
「そっか、よかった」
「……」
「あのね、朝、一応コンビニ行ってきたんだ。いろいろ買ったんだけど薬は売ってなくて、近くのドラッグストアまで行ったんだけどね、何か食べないと薬飲めないから…えっと…おかゆとかゼリーとか食べられるかな」
「いいと、言ったのに…」
「…うん。ごめんね」

わたしが知らずつくり笑いをすると、彼はまた気まずそうに視線をそらした。学習しないわたしはまた胸をいためる。彼が寝ている間ずっと考えていた。普通に話したいって、もっといろんなことが知りたいって、わたしのことを好きになって欲しいって。けれど、彼の言葉は胸にささるようにいたかった。苦しかった。考えるだけ無駄だとも思った。さっき謝ったのは、何に対しての謝罪なのかわたしにはわからない。わかりたいと思うことさえもうわたしには勇気がいることだった。

「ゼリーなら、なんとか…」
「よかった、冷蔵庫で冷やしてたからつめたいよ」
「ありがとう…ございます」
「はい、どうぞ」

ふたを開けてスプーンを渡す。彼が起き上がろうとベッドに肘を付く。いつもきびきび動いているトキヤくんがのそっと起き上がるのがなんだか可笑しくてつい笑うと、なんですか、とむっとしたような声が返ってきた。よかった、少し元気になったみたい。食べてくれないかもしれないとは、不思議と思わなかった。

「グレープフルーツ、好き?」
「…すき、です」
「そっかあ」

渡したゼリーとスプーンは彼の膝の上にとどまっている。わたしが首をかしげると、彼は布団をがばっと引っぺがしてわたしと向き合った。思わずのけ反ってしまう。

「…ずっと謝りたくて」
「……」
「私は今までずっとあなたを傷つけるようなことばかり言って…さっきだって、私はあなたに…」
「と、トキヤくんがやさしいの、わたし知ってるよ」
「…そうじゃ、なくて!」

びくっ。焦れたような声に、全身が緊張する。いつの間にかぎゅっと手を握りしめていた。長時間正座していたせいで両足がしびれている。いたい。動かしたいのに、いたくて動かせない。逃げ出したい。何言うの。こわいよ。トキヤくんとこんなふうに向き合って話したことなんてなかったから。すごくこわい。

「っ情けない姿を、見せたくなかったんです。あなたの前で虚勢を張るのがくせになっていました」




彼が、ゆっくりとした仕草でベッドから出る。正座をするわたしの前で、膝を折る。きれいにひそめられた眉。わたしと視線を合わせる。うすい唇が、そうっと息をはいた。

「ずっとやさしくしたかった」




そんな、じれったいかお。やさしくて低い彼の声。たまらなくなってうつむく。トキヤくん。トキヤくん。トキヤ、くん。何度も名前を呼んだ。気持ちがあふれるのをせき止めるように心で何度も彼の名前を呼んだ。そんな言葉をわたしにくれるなんて。そんな表情を、声を、視線を、わたしにくれるなんて。

「あ…うう…っ」
「なっ、え、あの…、すみません、何か気に障りましたか」
「ち、がうの」
「泣かせる気は…なかったのですが」

今度は彼がわたしの背中をゆっくりとさすった。大丈夫ですか、すぐそばで彼の声が聞こえる。やさしい響き。微笑んでいた。確かにわたしに向けられているそれだった。今までのいたみを全て忘れられるくらいにうれしかった。何度も聞いた声、何度も見た笑顔。今はそれがわたしに向けられている。わたしが思っているよりずっと彼は幼くって子供だったんだ。どうやってやさしくしたらいいかもわからなくて、甘え方も下手で、いつだって手探りの男の子だったんだ。

「だ、抱き着いてもいい?」
「…はい」
「わたしも、わたしもね」
「…はい」
「やさしくして欲しいよ、トキヤくん」

両手を広げればしっかりと受け止めてくれた。ダンガリーシャツ越しの背中はあつくて、少し汗をかいてる。嫌われてるのかと思ってたなんて言ったら今度は彼が傷ついてしまうから、言わないでおくね。トキヤくんの長い前髪が頬にあたってくすぐったい。トキヤくん、髪ぐしゃぐしゃだよ。シャツだってよれよれ。汗で湿ってるし、ちょっと重いよ。腕の力がつよくって少しいたいよ。どうしてこんなにくっついてるのか自分だってまだちゃんとわかってないけど、よく理解できないけど、ひとつだけトキヤくんに思ってる確かなことが、あるよ。




やさしくなりたい
きみにやさしく、なりたいよ


happy birthday to yuttan..


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