ワンルームの続き


「右にいきたいときは左に体重をかけるんだ、」

なだらかな斜面でゆっくりと進むわたしの両腕をしっかりと引いて、ヒロトは首を左にかしげる。彼はスキー板を付けないまま、やってごらん、そう言ってやさしくわたしを促した。まだ初心者のわたしはどこに行ってしまうかわからないから、すみっこで彼とふたりきり。ひゅんひゅん横を滑っていく誰かに気をとられながら、早く上達して彼と二人であんなふうにゲレンデを滑り降りてみたいって、そんなことを思う。頑張ろう、ヒロトの補助無しで滑れるようになりたい。おそるおそる体重を左側にかける。

「わっ、ほんとだ」
「そうそう、上手だよ」
「うん!」

すごくうれしそう。ヒロト、すごく楽しそう。珍しいなあ、もっと見たいなあ。はじけるみたいに笑うヒロトがうれしくて、彼の言った通りにできた自分を褒めてあげたくなるくらい。

「止まるときは板を八の字にするみたいにね、こう、ほら」
「う、うん。八の字…!わあっ、止まったよヒロトっ」
「なまえはスキーのセンスがあるのかもね」
「本当?」
「ああ、すごく上手だ」

すっとのばされた彼の手がわたしのゴーグルを外す。ああ、オレンジ色の雪がまっしろに変わる。まぶしい。つめたい風は頬をさすほどに冷たいのにどうしてなの。こんなにぽかぽかするのはなんでかなあ。彼が褒めてくれるのが、抱き着いて頬ずりしたくなるくらいとびきりうれしくて、わたしは思わず掴んでいた彼の両腕を後ろにぐいと引っ張った。…あれ?

「わ、あ、ひろ、だっ、わあ!」
「うわっ」

掴んでいた彼の手袋がすぽっといとも簡単に抜けて、わたしとヒロトはすぐそばの積み上げられたふかふかの雪に突っ込んだ。見開かれたターコイズグリーンの瞳と、間抜けなわたしの声と、まわりに舞うまっしろな雪と。とっさにわたしを支えようとのばした彼の腕は宙をきって見えなくなった。どさっと重たい音がする。顔が、つめたい。足が変な方向に曲がって、少し痛い。

「怪我してない?どこか痛いところ、ない?」

がばっと起き上がったヒロトは雪まみれで、でも必死な顔をしていて、なんだか可笑しくてふへっと変な笑い声が出た。帽子もウェアも、まっしろだよヒロト。ちょっと転んだくらいで大げさだよ。スキー板を付けているから横にしか倒れられなくて、ちょとだけ左肩がいたいけどぜんぜん平気だもん。

「ふっ、な、ない」
「…そっか、よかった」
「ひっ、ヒロトは大丈夫?」
「何わらってるの」
「だって」

ひとしきり笑ったあと、彼はため息をひとつついてわたしを起き上がらせてくれた。重いからいいよって断ってもきかなくて、少し恥ずかしかった。ちょっと眉間にしわが寄ったのわたし見逃さなかったんだからね。スキー板を外して、それからヒロトの手から抜けてしまった手袋を二人で探した。わたしが見つけ出して、二人で良かったねって笑った。次わたしが転んだときは、わたしも恥ずかしがらないから、ヒロトも王子様みたいにひょいってわたしのこと起き上がらせてね。なんて、ヒロトには言えないけれど。

「ねえねえ、雪たべちゃった!」

舌をべっとだしてみせると嫌な顔をされる。けれどすぐにばかだなあって笑う。また笑い合う。ああ、スキーはあんまりうまくいかなかったけれど、ここまで来るのに三時間もかかってしまったけれど、今日本当に来てよかったよ。楽しかったよ、いろんなヒロトが見れてうれしかったよ。なまえ、おもむろに名前を呼ばれ、顔を上げる。なあに、ヒロト。いたずらっぽく笑った彼はスキーウェアのチャックを下ろして、インナーの首元に人差し指をひっかける。わたしは彼の言おうとしていることの意味がわからなくて、首をかしげる。そのままくいっと下に引っ張ると、きれいな鎖骨がのぞいた。え、えっ、ヒロト、何、

「スキーウェアの中まで雪がはいっちゃって、すごくつめたいんだけど」
「はっ」
「ね、どうしよ」
「し、知らな…!あっ、わたし!アイス食べたい!」
「ええ?」
「アイス食べたいったら食べたい!」
「…何本か滑ったらって言ったよね、おれ」
「……」

今とくべつ食べたいわけじゃないよ、アイスなんて。


どくんどくんどくん

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