「風丸くん、あのね」
「…わかってる。英語の和訳やってないんだろ」
「えっ、どうしてわかるの」
「顔にかいてあるから」

そう言い当てた風丸くんの、めずらしい得意げな表情に、なんだか自分の和訳を書き込んでいない真っさらなノートが恥ずかしくなってしまって、わたしはほんの少しだけうつむいた。顔にかいてあるなんて、風丸くんは嘘つきだ。次の時間が英語なのをちゃんと風丸くんは知っている。わたしが英語を苦手科目としていることを彼は既に心得ているはずなので今更隠す必要はないのだけれど、やっぱりいい気分にはなれなくて、ちいさな風丸くんの意地悪を受け止められない自分にちょっぴりくやしくなった。頭の良い女の子には到底なれそうもないから。風丸くんってあんまりそういう顔しないよね。わたしが知っている風丸くんは、笑っているときの目尻が下がる表情、サッカーボールを追い掛けているときの真剣な表情、教科書とにらめっこしているときの難しい表情、そのくらいしかない。考えてみると案外少なくって、簡単に片手で足りてしまう。こんなの、同じクラスの女の子だって知っていることなのに。

「貸さないとは言ってないだろ、ほら」
「…風丸くん」
「うん?」
「今日、いっしょに帰りたい」

差し出された水色のノートを受けとって、変わりに左の小指を彼に向ける。やくそくして欲しい。一緒に帰ろうだなんてこと、初めて自分から言った。どうしてこんなに意味もなく不安になっているんだろう。なんだか無性に約束が欲しくなって、わたしは少しだけ目をおおきくしている風丸くんを見つめる。わたしのなかのかわいくない感情になんかちっとも気付かずに、彼は微かに頬に赤を滲ませた。ふいとそらされる視線にむず痒くなって、座る彼の右隣りに立っていたわたしは真正面にまわって無理矢理視線を合わせる。そんなわたしに風丸くんは苦笑して、やさしい声でやめろよ、ってつぶやいた。照れてる風丸くんがうれしくって、さっきのかわいくない感情はすっかりどこかへ消えてしまった自分に気付く。やさしい彼といるとわたしまでやさしくなれるような、そんな穏やかな気持ちに、風丸くんはしてくれるね。

「おれはそのつもりだったけど」
「ほんと?」
「ああ」
「じゃあほら、やくそく!」
「…恥ずかしくないのか」
「えっ、あっ」
「……」

今度顔をあかくしたのはわたしのほうで、彼は頬杖をつきながらやんわりと微笑んだ。あんまりやさしい顔で笑うから、その表情で見られていると思うとなんだか気恥ずかしくて、思わず彼の右肩を軽く小突く。いてっ、いきなりのことに驚いたのか、思いの外おおきな声を出した彼は自身の肩をさすりながらじとりとわたしをにらんだ。そんな顔したってこわくないもん。

「急いで着替えてきてよねっ」
「おまえな…」

・・・・・


つま先ばかり見ていたわたしを、風丸くんが明るい場所へ連れて行ってくれたのよ。手を伸ばして、風丸くんはわたしにやさしくしてくれた。大丈夫って教えてくれた。だからわたしも、彼がわたしにくれた分だけのやさしさを、風丸くんに返したい。サッカー部の練習で平日も休日も忙しい彼とは、一緒にどこかへ行ったりすることはできないけれど、わたしそれでも毎日楽しいよ。観たい映画もあるし、近くにできた新しい水族館にも二人で行ってみたい。駅前のアイスクリーム屋さんのかぼちゃ味、すごく美味しいんだって。風丸くんと行ってみたいって思っていないわけじゃない。周りの友達の話を聞くと、うらやましいなあって思うけど、いいの。映画も水族館もアイス屋さんも、一緒に行けなくたっていいの。

風丸くんはやさしいから、わたしが行きたいって言ったらきっと、付き合ってくれるんだろうなあ。わたしの座るグラウンドの隅っこのベンチからはサッカー部の練習が見えない。一生懸命走っている彼を見ていると、どうしてか胸の奥がぎゅっとなる。眩しくって、呼吸がちょっぴりしづらくなるの。どうしてかなんてわたしにも解らないけれど、ただ言えるのは、この気持ちは風丸くんにだけってこと。

「なまえ」
「おっ、今日は早いねえ」
「おまえが急げって言ったんだろ」
「あは…」
「?どうした」
「…うん、そうだね」
「なんだよ、何かあったのか?」
「ううん。わたしが急いでって言ったの、覚えててくれたんだなって思って」
「そりゃ覚えてるだろ」

そうなの、風丸くんはこういう人なの。何でもないことみたいに、当たり前みたいに、わたしが欲しい言葉をくれる。ベンチから動こうとしないわたしの隣に、彼も同じように腰を下ろした。ねえ、わたしが今どのくらいうれしいか、わかってる?マフラーを巻き直す風丸くんの鼻があかい。練習、がんばったんだね。こんなに寒いっていうのにボールを追ってグラウンドを駆け回ったの?そう思ったら、彼の姿も見ていないのに胸の奥がぎゅっとなる。

「うっ、わ!なっ、なんだよ」

思わず触れた鼻先に、彼はびくっと肩を揺らして元々おおきな目をもっとおおきくした。わ、初めて見た、そんな顔。こんなふうにどもったりするのも、初めて。

「え…あ、鼻あかいなって、思って」
「そ、そうか?今日は寒いから、かもなっ」

あかいのは鼻だけだったのに、頬と耳まで真っ赤にした彼は鼻をすっかりマフラーにうずめて、やっぱりそっぽを向いてしまう。ねえねえ、話し掛けても振り向いてくれなくって、風丸くんはぶっきらぼうにいきなりこういうことするなって呟いた。ふふ、かわいいなあ。大好きだなあ、風丸くんのことがほんとうに。映画も水族館もアイス屋さんも、もうわたし何にもいらないや。

わたしもきちんと風丸くんと向き合うよ。サッカーが好きな風丸くんをちゃんと見つめるよ。まぶしくても遠くても手が届かなくても、逃げたりしないから。明日からはサッカー部の練習を見に行くことを心の奥でそっと誓って、彼のマフラーをくいと軽く引っ張った。わたしのもう帰ろうの合図に風丸くんはちいさく頷く。

「明日も一緒に帰りたい、です」
「…ここで待ってるつもりか?」
「ううん、明日は練習見に行くよ」

わたしがそう言うと、彼はまた目をおおきくして何とも言えないような不思議な表情をした。マフラーを人差し指で口元より下にずらす仕種。そんな彼にわたしが首を傾げると、風丸くんは眉を下げてぎこちなく笑う。

「どうしておまえは練習を見に来ないんだろうって、ずっと思ってた」
「…あ」
「だから、良かった」

彼はやっぱりぎこちなく微笑んで、それからわたしに手を差し出し帰りを促した。帰らないのか?そう言って立ち上がり、今度はやわらかく笑った。風丸くんは気付いていたんだ。差し出された手を握りわたしも同じように立ち上がる。

「風丸くん、手あったかいねえ」
「…そうかな」
「うん、そうなの」
「そういうおまえは冷たいな」
「風丸くんを待ってたからだよ」
「えっ、ああ、ご、ごめん」
「うそだよ。風丸くんの手があったかいから平気」

手の先からぽかぽかが伝わって、胸のあたりまでなんだかあたたかくなってゆくみたい。風丸くんに要らない心配までかけちゃって、わたしは駄目な彼女だなあ。ねえ風丸くん、こんなわたしでもいい?いいって言ってくれるよね。きっと風丸くんは、やさしいからね。


呪文は花屋で買えない

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