きれいな栗色の髪、まっしろな肌、華奢な身体とまあるい大きな目。もしわたしがあのこみたいに可愛かったなら、あのこのもつものを全て持っていたなら、ヒロトはわたしを好きになってくれたかな。一緒に帰ったり、さみしくなった夜に電話をしたり、ふたりで手を繋いだり、こいびとがするようなこと、してくれたかな。雨の子守唄がわたしをすっぽりと包み込んでしまったとき、そんなことは天地がひっくり返っても有り得ないのだと気が付いた。意地っ張りで、可愛くないことしか言えなくて、髪のみじかいわたしをヒロトが好きになるわけないじゃない。ヒロトはやさしくて可愛いあのこみたいな女の子が好きなんでしょう。夏に遊びに行った海で日焼けした自分の腕がうらめしい。あのことわたしの違うところを挙げたら、きっと両手の指は簡単にうまっちゃうね。カスタードプリンの底のちょっぴり苦いカラメルソースみたい。

 どうして一週間前に髪を切っちゃったんだろう、今更遅いけど、後悔せずにはいられないよ。セーターから少しだけはみ出した指先で肩で揺れる髪を引っ張ってみる。やっぱりあのことは違うんだって勝手にかなしくなって、鏡なんて一生見たくないなんて思ったりもした。本当はわかってる。例えわたしが髪をのばしたとしても、きっとそんなことするだけ無駄だってこと。だからどんなに誰かから髪型がかわいいねと褒められても、似合っていると言われてもちっともうれしいと思えなかった。みじかいこの髪が、いつまでもくせっ毛のなおらないこの髪がきらいで、いやで、長い髪が欲しくって。でも、うそ、本当は、心の底からきらいになったことは一度もないの。だって、だってね。わたしはあのこになりたかったわけじゃないもの。

 ヒロトのとなりできれいに笑うあのこを見てしまったあの日から、きっとわたしの時間は止まってしまったんだ。あれは、今日のように穏やかな雨の降る金曜日だった。夏というには肌寒くて、秋というにはまだ夏の名残を感じさせる、雨の日。お気に入りの音楽が流れるイヤホンを耳に、下駄箱で靴を履き替えていたわたしは偶然にもひとつの傘の下で笑い合うふたりを見た。見間違うはずがなかった。脱ぎかけていたローファーもそのままに、からっぽの頭で小さくなっていくふたりを見えなくなるまで見つめていた。お気に入りの音楽も、雨の音も聞こえない。周りの音は何も、聞こえなかった。心臓を誰かに盗まれてしまったみたい。あのこはヒロトの、彼女なの?

 あれから何度かヒロトと一緒に歩いていた女の子を学校の廊下で見かけることがあったけれど、そのたびにわたしの止まってしまった時間はどんどん錆び付いて、きっともう誰にも動かせない。女のわたしから見てもやっぱりかわいいそのこに、自分もあんなふうにかわいくなれたらと切に思った。そうすればヒロトが振り向いてくれるかもしれないと、拙い望みを捨て切ることができなかった。だけど本当は、本当はね。髪のみじかいわたしを、好きになって欲しかったよ。髪は長くはないけれど、陶器のような雪の肌もおおきな目も持っていないけれど、それでもいいよって。なおらないくせっ毛も、好きだよって、言って欲しかったんだよ。わたしを、好きと言って欲しかったんだよ。



「手伝おうか、」

 窓の外はあの日と同じように静かな雨が降っている。日直の仕事をしていたわたしの前には、練習着姿のヒロトが立っていた。黒板を消していた手が止まる。濡れて泥だらけの練習着、雨でヒロトのきれいな髪が額にすっかりはり付いてしまっていた。サッカーを、してたの?教室のドアに手をかけながらわたしと目を合わせる彼は、なんだかずうっと前からそこにいてわたしのことを見ていたかのように真っ直ぐな目をしていた。どうしてここにいるの?部活はどうしたの?どうして、どうして。そんなことばかりが頭の中でぐるぐるまわっていて、何も言うことが出来ない。久しぶりにわたしに向けられたヒロトの声は、ひんやりとした教室の空気にふんわりやさしく溶けた。ヒロトがそこにいるだけで空気がやさしくなるみたい。胸がいたくて、なみだがでそう。どうしてそんなにやさしいかお、してるの。

「い、いい。ひとりでできる」

 ほらやっぱり、わたしはかわいくない。あのこだったらありがとうと薄く微笑むのかな。スカートが揺れる。これ以上ヒロトと向き合っていられない、そう思った。思い切り目をそらしたわたしはまだチョークの文字が残る黒板と向かい合わせ。もうきっと振り向けない。いつからわたし、ヒロトとこんなふうになっちゃったの?唇がふるえてうまく話せないなんて、声を聴いただけでなみだがでそうなんて、向き合って目も合わせられないなんて、どうして?

「…そっか」

 背中越しに伝わる彼のせつない声の響きを、わたしはどうやって受け止めればいいの。ヒロトが笑ってくれるようなこと、わたし何もわからなくなっちゃったよ。黒板消しを握る手の力がいつの間にかふるえてしまうほど強くなっていることに気付く頃には、あのときのように何も聞こえなくて、感じるのは大きな心臓の音と、小さな彼の呼吸の音だけ。いま、どんなかおしてるの?振り向けないわたしは、ヒロトのかなしい表情を知る術を知らない。

 あ、のさ、と歯切れの悪い口調で彼がぽつりとせつない音をこぼす。微かな声音がやわらかく教室に響いてそっとわたしの耳に届いた。きゅうっと締め付けられる小さな胸はきっと泣いている。わたしの二つの耳は彼のこぼした音達を一つひとつ大切にひろい上げてしまうから、忘れないように身体に刻み付けてしまうから、余計に息がくるしくなった。

「…傘、持ってる?」

 ヒロトが一歩踏み出したのが気配でわかる。ためらいがちに、そっと。地に根がはったように動けないでいるわたしをヒロトは、無愛想だと思うかな。嫌なやつだと思うかな。嫌いになられてもおかしくはないんだ、こんなかわいくないわたしは、ヒロトに好かれる理由がない。見当たらない。探したって、見付けられない。

「持ってないなら、これ、使って」

 ことり、教卓の上に何かを置いた彼は、じゃあ、またね。そう言って、教室のドアを静かに閉めた。足音が遠ざかってゆく。空気がぐっと重たくなる。恐る恐る振り向けば、そこには折りたたみ傘が置いてあった。見覚えのあるそれは、確かにヒロトのものだった。わたしが傘を忘れた日、その折りたたみ傘に二人で入って帰ったことさえあった。ヒロト、ヒロト、ヒロト。見えない透明のやさしさに埋もれてしまいそうだった。勇気をくれたような気がした。目をぎゅっと閉じればそこには、やさしく微笑むヒロトが、ずっといたのに。目の縁に溜まっていたなみだがこぼれるのと同時に、わたしは折りたたみ傘を掴んで教室を飛び出した。このままヒロトが行ってしまえば、もう一生ヒロトと話せないような気がした。そんなことは絶対にいやだった。視界の端っこに、彼の後ろ姿をとらえる。

「…っヒロト、」

掠れた声が、喉を通り彼の名前を呼んだ。情けないけど、泣き顔なんて見られたくないけど、今はどこにも行かないで。彼の練習着の裾をぎゅうと掴む。ヒロトが静かに息を呑むのがわかった。

「どう、したの…?」
「こ、こっち向かないで」
「……」
「ヒロト、おねがい、そのまま聞いて」

 顔を見たらきっと言えない。涙で曇る視界に彼がまだうつるうちに、わたしの体温があたたかいうちに。とまっていたわたしの時間が、そっと動き出す。

「ずっと、まえから、ね」
「…うん」
「わたし、ヒロトの彼女に…なりたかった」

 一緒に帰ったり、さみしくなった夜に電話をしたり、ふたりで手を繋いだり、こいびとがするようなこと、ヒロトとしたかった。彼女になりたかった。いつか告白をして、わたしの好きにヒロトが応えてくれたら、どんなにしあわせだろうって。いつもそう、きらきらの夢を見てた。

 ヒロトはいつも女の子に人気があったから、ヒロトと仲の良かったわたしは陰で悪口を言われたこともあったよ。ちっともかわいくないのに、どうしてあんなこと仲良くするの?ヒロトくんも仕方なくなんじゃない?あのこじゃ不釣り合いだよね。弱虫で泣き虫で、わたしはそんな声達に立ち向かう勇気を持ってなかったの。それがどうしたのって、胸を張れば良かったのに。誰にも負けたりしないって、ヒロトのことがだいすきだって。

 意気地のないわたしはヒロトを好きな気持ちを心の奥深く、誰も手の届かないところにしまい込んで、鍵をかけた。ヒロトは変わらずやさしかったのに、距離を置いたのはわたしのほう。馬鹿だったの、わたし、それにとてもこわかった。いつしか彼の隣じゃうまく笑えなくなっていた。嫌でも耳に入る囁きが、ヒロトのやさしい声も届かないほどわたしのなかで大きくなっていった。触れたい、だけど、こわい。話し掛けるのも億劫で、話し掛けられるのはもっとこわかった。そんなわたしにヒロトは何も言わなかったね、傲慢で稚拙で矛盾してるけど、余計にそれがかなしかったよ。当たり前みたいに離れてくヒロトが、わたしなんていなくても平気だって言ってるみたいで。わたしがいなくても、ヒロトの世界は何一つ不自由なく廻ってゆくんだと。他の女の子に笑いかける彼を見る度、しまい込んだはずの気持ちがあばれだす。何度、溢れないように唇を噛んだかわからない。独りよがりだったのかもしれないと落ち込んで、たくさん泣いたりもした。思っていたよりもずっと、わたしはヒロトのことが好きだったんだ。

「じゃあ、どうして」

きつく練習着の裾を握るわたしの手に、ふわりと彼の手が重なる。慈しむように、こわれないように。わたしの手の甲に触れるヒロトの手がつめたくって、あんまりつめたいから、やっぱりわたしの涙は止まらない。彼はゆっくりとわたしに向き合うと、手を握る力をほんの少しだけ強くした。

「…おれのこと、避けたの」

 聞いたことのない、声だった。彼の微かにふるえた唇と同じように、ふるえる声がせつなかった。せつないって、そんな顔しないで。ヒロトのターコイズグリーンの瞳いっぱいにわたしがうつっている。きれい、でも、かなしい。ごめんね、ヒロト。ゆらゆら揺れる瞳、つめたい手、頼りない背中。

「ヒロトのことを好きな女の子は、たくさんいて」

 誰よりもかわいい女の子が、ヒロトには似合うと思った。ちいさくてしろくて髪が長くて、目のおおきな女の子がヒロトには似合うって、そう思ってたの。

「わ、わたしじゃヒロトに、っ釣り合わない」

言葉にするのが、とてもつらかった。

「それはきみが決めることじゃない」
「ヒロ、ト」
「誰が決めることでもないよ」

練習着同様、きれいとはとても言えない指先がわたしの涙をすくった。ずっとわたしが欲しかった言葉ばかりをヒロトはくれるんだね。触れている掌から、わたしのあたたかさがヒロトに伝わればいいのに。つめたいのなんか忘れちゃうくらい、わたしのあたたかさをあげるのに。

「おれは、」
「っ、う」
「きみに告白する勇気が、なかったよ」

どろどろの練習着もかまわずに、わたしはヒロトにぎゅうっと抱き着いて泣いた。わんわん泣くわたしの背中を彼はやさしく宥めてくれる。ヒロトは困ったように笑って、よごれるよと言った。そんなのどうだっていいの、そう言いたかったけれど、涙と嗚咽が邪魔してかなわなかった。しまい込んだ気持ちの鍵は、ヒロトが持っていたんだね。とまってしまったわたしの時間をもう一度動かす方法も、ヒロトは知っていたんだね。

「彼女、いない?」
「いないよ」
「好きな、おんなのこは…?」
「…きみだよ」
「う、うそじゃ、ないよね」
「嘘なんてつかないさ、」

「ねえ、泣かないで」

世界が色付き始める

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