※大人

ひとつ我が儘を、言ってみてもいいかな。こんなことを言うおれに、きみはいつか愛想を尽かす日がくるだろう。そのときおれは一体きみに何を言うのかな。引き止めるとか、謝るだとか、きっとたくさん選択肢はあるのだろうね。おれは何を思い何を選ぶのだろう。きみは、どんな顔をしているのだろう。

「基山くん」

さらりとシーツの上をきみの腕がすべる。控えめに名前を呼ばれて閉じていた瞼をゆっくりと持ち上げれば、彼女はおれの目をまっすぐに覗き込んで不思議そうに小首をかしげていた。ふたつの瞳いっぱいに情けない顔をしたおれが映っている。きみもそう思ってる?きみの前じゃ不甲斐無い自分さえも隠したいとは思わないよ。取り繕いたくないんだ、ありのままでいたいんだ。基山くん。何も言わないおれにしびれを切らしたのか、彼女はもう一度おれの名前を呼び、今度は少しだけ頬を膨らませながらおれの髪に触れた。聞いてるの、ねえ。そう言われているような気にさせられるのは、きみがおれの髪を甘えるように引っ張ったから。いたいよ。うそ、ちっともいたくないよ。彼女の瞳に不機嫌の色がうっすらと滲む。怒らせたかったわけじゃないんだけどな。

「基山くん、電気、消さないの?」
「電気?」
「ねむいって言ったの、基山くんなのに」
「…ん、ああ、そうだったね」

思い出したようなおれの言い方が気に入らなかったのか、彼女はわざとらしく唇をとがらせる仕種をしてみせる。そんなかおしないで、そう言って彼女の頬に人差し指で触れれば、途端におれの腕のなかのちいさなおんなのこはぱっと笑顔になり、くすぐったそうに身じろぎをした。瞼が重いと感じたのはつい先程のことなのに、こうして彼女に触れてしまえばそんな気持ちはどこかへ飛んでいってしまう。眠る時間も惜しいくらいにきみに触れていたいと、いつの間にかそんなことを考えている自分に気付くとき、おれはいつも思うんだよ。きみのことが好きだって、そう、思うんだ。

明日は久しぶりのお休みの日だねって、きみが笑いながら話していたのを思い出す。おれが好きなかおをしていた。明日はきみと二人で何をしよう、どこに行こうか。どこか行きたいところはないの?聞きたいことはたくさんあるのに、きみを前にするとうまく言葉にならない。喉の奥に引っ掛かったまま、きみに言いたい言葉たちはそこでいくつもしんでいった。知りたい気持ちを隠す癖がまだ抜けていない自分に、少しかなしくなる。いつも彼女はおれに、基山くんはひとつ言葉が足りないよと言う。そんなときおれはどうしようもなくて、ただかなしくて、きみに謝ることしかできない。おれが謝ると決まって彼女はおれの苦手なかおをする。今にも泣きそうな、そんな表情をする。

まっしろなシーツに包まるようにしていたなまえはするりとおれの腕を解き、立ち上がって寝室のすぐ入ったところにあるスイッチを押した。カチ、と小さな音がして、カーテンを閉め切っていた寝室は真っ暗な世界に覆われる。暗闇に目が慣れないうちに手探りで腕をのばせば、多分彼女の肩に触れた。くすり、吐息のこぼれる音がする。彼女はするするとベッドの上を動き、元居た場所へ体をおさめた。彼女の表情は容易に想像できる。きっと笑っているよね、きみにはおれのことが見えているよね。

基山くん、あったかいね。さっき風呂からあがったばかりだからかな。だから少し髪がぬれてるの?ああ、ごめん、冷たかったかな…乾かしてこようか。ううん、大丈夫よ。

「ねむっていいよ、基山くん」

きみの眠たそうな声にさそわれるように、おれは暗闇に慣れつつある目をゆっくりときみに移す。ちいさな身体をとらえる。彼女の肌に触れている部分があたたかい。おれの体温は割と低いほうだから、きみの体温を奪ってしまわないかとここまで考えて、こんなことを言えば彼女が怒りそうなのでそっと頭の隅っこに押しやった。明日は久しぶりのお休みの日だねと、笑った彼女がまた脳裏に浮かぶ。うれしそうな顔、してたっけ。思わず吐息がこぼれて、彼女のハニーブラウンの前髪をふわりと揺らした。

「…なまえ」
「うん?」
「あ、いや…あのさ」
「どうしたの?」
「……」
「基山くん、?」

きっと今おれは、きみの嫌いな顔をしてる。明日どこに行きたい?何をしたい?きみは、どうかな。おれと一緒にいて、本当にきみはいいの。また喉の奥できみに言いたい言葉がしんでいく。何度目になるかもわからなくなってしまった。口をつぐんだおれから彼女は目をそらさない。おれの言葉を待つ彼女は薄く唇をひらいたまま、息遣いがきこえる距離でじっとしていた。遠慮しているわけでも、我慢しているわけでもないのに、どうしておれは、

「基山くん」

両の頬をやわらかな掌で包まれる。はっとして彼女の手首に触れれば、彼女はひどくやさしい表情をしていて、おれはそんなきみに、声も出せなくて。うまく言葉も紡げないのに、きみが望むことも、きみが欲しいものも、何もあげられないのに。なのにどうして、おれの名前を呼んでくれるの。

「わたし、基山くんのことがだいすき」
「…え」
「だからね、へいきよ」

頬に添えられた掌に緩く力がこもった。泣き止まない赤子をそっとあやすように、教え諭すように。不思議なくらいに身体は熱をもっている。輪郭をそっとなぞるような体温がやさしくて、親指が目尻に触れているのがくすぐったくて、彼女の声に包まれているようだった。泣きそうに、なる。こんなおれを、きみは。

「基山くんが何を考えてるのか、わたし全然わかんない」
「なまえ、」
「それはちょっとだけ、いやだなって思うけど…」
「……」
「基山くんはいつも言葉が足りないんだもん」

添えられるだけだった彼女の指先がおれの頬をやさしい力で引っ張った。いたい。けれど、あたたかい。鼻先が触れる。彼女の声は泣いていた。おれの心が泣いているのに、気付いていたんだ。わかっていたんだ、きみも。わかっていて何も言わないでくれていたんだね。おれを、待ってくれていたんだね。

「でもね、わたしは基山くんのことをいつまでだって待っていられるよ」

だってずっといっしょだもの。基山くんのこと、すきだもの。そうささやいた彼女はとてもあたたかかった。触れている手も言葉も声も見つめる瞳さえすべてがあたたかくて、おれはそんなあたたかさがしあわせで、目尻からこぼれた涙のつぶは彼女のやわらかな人差し指がすくってくれる。胸が苦しいわけじゃない、悲しくもないし、どこかが痛いわけじゃない。ただ、きみのあたたかさが、おれの固い枷をそっとこわしてくれたんだ。こぼれた涙はその証なんだね。

「だからあせらなくっていいよ、」
「離れていったりしないから」
「…ぜったいよ」

顔をくしゃくしゃに歪めながら、彼女も泣いていた。おれを繋ぎ留める言葉を必死に探す彼女は涙をぽろぽろこぼしながら、けれど決しておれから目をそらさずに。やっと動かせるようになった右手で、彼女の髪を耳にかけてやる。彼女は微笑んだ。おれの好きな顔だ。

「ねえ、なまえ」
「う、ん」
「明日はおれ、きみが行きたいところに、行きたいよ」

ほら大丈夫、まだおれはきみにやさしくなれる。



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