「ね、ね、奈良。そのアイスコーヒーひとくち頂戴」
「だめ」
「…なんで」
「なんでも」

椅子の背もたれにだらし無く座る彼は制服のズボンの裾をふくらはぎ辺りまで捲っていて、それに加え襟元のワイシャツをぱたぱたとやっている姿はいかにも体育の授業が終わった後。奈良の机の上に置かれたパックのアイスコーヒーはしっとりと水の汗をかいていた。あちい、とけだるそうにしている彼に唇を尖らせれば、奈良は私を一瞥し自分で買ってこいと言い放った。違うよ、奈良。そこまでしてアイスコーヒーが飲みたいわけじゃないんだよ。ただ話し掛ける口実が、欲しかっただけ。

「いいじゃん、ちょっとくらい」
「あ、おま」

素早くパックに手をのばし、奈良の声が聞こえたのと同時に真っ白なストローに口を付ける。口内に広がるにがいアイスコーヒーの味に思わず飲み込むのをためらった。こくり、こんなにがいものを奈良は飲んでいたの。わたしにはまだガムシロップとミルクが必要みたい。ストローから唇を離してそろりと奈良のほうを見れば、彼は何かを言いかけたように薄く唇を開いていて、見慣れた呆れ顔に思わず肩を揺らして笑った。

「…飲むか普通」
「アイスコーヒーにがいよう」
「そういう問題じゃねえ、このばか」
「なっ、なにっ、ばかって言うな」
「言うよ、ばか」
「!」

私を見上げているふたつの目の奥が悪戯に揺れたのは気のせい、だと思う。なんだか今日はちょっとだけ奈良が意地悪だ。私の手からするりとアイスコーヒーを奪った彼は、私が飲んだばかりのストローに同じように口を付けた。心臓がどきんと小さく音を上げる。なんだか喉が焼けるみたいな、心臓がちくちくするような、形容しがたいくすぐったさを覚える。

「はー、あっちい…」
「た、体育なにやったの」
「ん?バスケ」
「…奈良がボール持って走り回ってるとこなんて想像できない」

うそ、そんな姿みたらきっともっと好きになっちゃうから想像したくないんだよ。女子と男子一緒に体育の授業やればいいのに。ああ駄目だ、それじゃあんたを好きになる女の子が増えちゃう。じゃあどうすればいいんだろう、サクラを連れて除きに行く?サクラはいやだって言うだろうなあ。呆れ顔じゃなくてもっと、ねえ、ちがう顔みせてよ。

「…おまえ俺を何だと思ってんの、動くよ」
「めんどくさいって言わないんだ」
「負けるほうがめんどうだろ」
「へえ…ちょっと見てみたいかも」
「いいよ、見なくて」

あ、笑った。目の前でアイスコーヒーを飲む奈良の姿を見たらなんだか無性に恥ずかしくなってしまって、私は下を向いたまま慌てて他の話題を振った。奈良は全然そういうの気にしないのかな。ちらりと隣の彼を盗み見れば、奈良はうわーもうこんな少ねえ、と紙パックを揺らしている。そりゃ奈良がほっぺをあかくしていたりしたら気持ち悪いけど、今のこいつの態度もどうかと思うなあ。彼は下敷きを探しているようで、わたしのほうを向いてもくれない。知ってる?あと一週間後には席替えがあるんだよ。奈良の隣の席ももうすぐ終わりなの。一か月前にあんたの隣の席の番号を引き当てたわたしのくじ運の強さも、きっと二回目はない。わかんなくっていいけど、こんなこと思ってるわたしにも気づかなくっていいけど、なんのアクションも起こせないままここまで来てしまったわたしは、ほんとにほんとに意気地なし。

「あ、ねえ、奈良」
「うん?」
「ワイシャツの襟、折れてる」
「え」

だからずっとね、あんたのワイシャツの襟が折れてるのにも気付いているくせに、言えなくてばかみたい。教えてあげれば早いけど、それじゃ意味がないよ。わたしが、直してあげたいって。そう思うんだもん。ねえわたし、自然に言えてる?今気付いたみたいに、振る舞えてる?変に思われてないかな。奈良は、いやじゃないかな。パックジュースは奪えるのに、へんなの。勢いって結構大事だ。

「動かないでね」

なあんて余裕ぶって、何とも思ってないんだからね、わたし、って。あんたの襟を直してあげるくらいへっちゃらなんだから、って。首筋に手をのばす。真っ白な襟に触れて、きちんと折って直してあげる。ふるえちゃうのはわたしの手のほうだ。奈良はじっとおとなしくしていて、あれここ教室?ってくらい周りの音がなんにも聞こえない。どっくんどっくん動いてる心臓の音がやけに大きく聞こえて恥ずかしい。人差し指が、思わず首筋に触れた。微かに動いた彼の肩に恥ずかしさはついに頂点に達し、勢い良く腕を引っ込める。ああもうわたしのばか、触らないようにって気をつけてたのに!

「う、あ、ごめん」
「……」
「…な、なんか言ってよ!」
「くっ」
「わ!わら…!」
「ふ、なんでおまえがあかくなってんの」
「ばっ、べつに、あかくない!」
「あかいよ」

そう言って彼は、さっきよりずうっとやさしくやさしく目を細めて微笑んだ。わたしのうるさい胸はがしっと何かにわし掴まれて、いたいいたいとちいさく悲鳴をあげる。どうしよう、好きだ。あんたのこと、すごく好き。

「ははっ、ばっかだな」
「…わたし、襟直してあげたんだけど」
「知ってる、さんきゅ」

もう知らない。そう睨みつけて机に突っ伏す。こんな緩んだ顔、もう見せられないよ。気付かないでね、こんなわかりやすいわたしのこと、何にも気付かないでいてね。隣でワイシャツの擦れる音。椅子がかたりと動く音。どこかいっちゃうの?そろりと顔をあげる。まっすぐに彼と目が合う。わたしを、みてたの?

「なんかおまえといると喉渇く」
「…な、にそれ」
「んん、なんだろうな」
「わ、わたしのせいにしないでよ」
「あほ、そういうんじゃねえって」
「じゃあなに…」
「だから、おまえといると喉渇いて仕方ないの」

ねえそれってどういう意味?


I am thirsty.



×