※現代

「なまえさんとキスしてみたい」

揺るがない漆黒に射抜かれて、思わずこくりと息をのんだ。会社のみんなで飲みに行った帰り道、奈良くんが送ってくれると言うからその言葉に素直に甘えて。いつもの道なのに彼と歩いているとすごく楽しくて、普段よりずっとたくさん笑っている自分に気が付いた。こんな気持ち久しぶりだなあって、そう思っていた。突然彼が見せた大人びた表情に魅せられる。

「な、何言ってん、の?」
「だから、なまえさんとキスしてみた」
「わああっ!」

言葉を遮って、奈良くんの口を掌で覆えばそのまま簡単に手首を掴まれてしまった。縮まる距離。速まる鼓動。私のアパートはもう目の前なのに、このまま笑ってさよならとはいかないらしい。だって奈良くんは私の後輩で、私は奈良くんの先輩で。それだけでしょう、他に何もないでしょう。あまりに脈絡の無い発言に拍子抜けしてしまう。物凄く恥ずかしい。

「離して、よ」
「俺が言ったこと、聞いてなかったんですか」
「き、聞いてたけど意味がわかんない」
「わかりやすく言ったつもりだったんすけど、」

…やっぱり駄目か、と小さくつぶやいた彼はするりと私の手首を離してその手を自分の髪にやった。急に変わった声音に驚く。

「あの、よ、酔ってるんだよ。奈良くん」

下を向いてしまった彼に焦って声をかければ、なんだか機嫌の悪そうな瞳と目が合った。奈良くんの視線に怯んだ私は自分が彼の先輩だということを完全に忘れていたんだと思う。

「俺が酔ってこんなこと言うと思ってるんですか」
「え…、」
「酔ってなんか、ねえ」
「きゃっ」

手首をもう一度掴まれる。もっと乱暴に掴まれると思っていたのに、荒っぽい口調とは反対に思いの外彼の力はやさしかった。奈良くん、どうして。

「部屋、どこすか」
「えっ」
「部屋」
「…に、二階の一番奥」

言い終わるか終わらないかのうちにそのまま腕を引っ張られて、彼はアパートの階段を登り出す。半ば引きずられるようなかたちで私も彼の後ろをついていった。不機嫌にさせてしまったのは紛れも無い私なのだけれど、不安で仕方ない。怒ってるの、かな。でもいまいち理由がわからない。今、どんな顔してるの、

「っ、あ」

私の部屋の前に着いた途端肩を掴まれて、扉の前に押し付けられた。やさしい力、でも決して逃がしてはくれない力。さっきよりも近い距離に心臓がもたない。は、とちいさく吐かれた彼の息が私の前髪をふわりと揺らした。

「なんで俺に部屋の場所教えるんだよ」
「…だ、って」
「そうやって誰にでも簡単に教えちまうのか、」
「ち、違うよ…っ!」

また一歩奈良くんが私との距離をつめる。綺麗に下げられた眉、緩く細められた瞳。色っぽい表情に、腰が砕けそう。よく見たら、奈良くんが唇を噛んでいるのに気付いた。薄い唇に、見惚れてしまう。ワイシャツから見え隠れする綺麗な鎖骨や、シャープな輪郭に違う意味で息をのんだ。

すう、と息を吸う音が聞こえて、肩を掴んでいた手の重みが消える。奈良くん、と名前を呼ぼうとしたのに、



「ずっと、みてた」
「なら、くん?」
「あんたが好きだ、」

こんなに鈍いとは思ってなかった。耳元に注がれたそのすれた低い声に私の頭は完全にショートした。気付けば爪先立ちで彼の唇に自分のそれを押し付けていた。びくりと動いた大きな身体を初めていとしいと思う。ゆっくりと腕をまわせば、たどたどしい腕が私の背中に、





(とろとろに溶かして、溶かして)


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