星が生んだ指先の続き
※現代



携帯の画面をただぼんやり見つめていた。うつしだされた、まだ一度もかけたことのない携帯番号の斜め上でひかる名前。発信の文字をひとさし指でさわれる日などくるのだろうか。休みの日はなにをしているの、不摂生になってはいませんか。休日の朝は決まって飽きもせず彼のことを考えた。彼の声がこいしくなって、目をつむって声を思い出そうとしても、いつもうまくいかなかった。歯がゆくて、毛布にくるまってやり過ごすだけの朝、わたしは少しだけ自分をきらいになる。

スーパーマーケットで彼を見かけたのはそれから二時間後のことだった。アパートから自転車で三分のところにある、最近改装したばかりのスーパーマーケットの駐輪場に自転車をとめる。いつも通りの休日に非日常がまじっていた。そこだけがくっきりと切り取られたように色が違って見えた。息をのむ。くすんだオレンジ色の買い物かごの持ち手を強くにぎった。からっぽのそれが膝に当たって、すこし痛い。すぐにわかってしまう。気づいてしまう。彼の隣にいる女性はわたしのよく知る人で、野菜売り場の前で立ち尽くしたままのわたしに彼女はいち早く気が付いた。ぱあっと笑顔になる。こちらに向かい歩いてくる。喉の奥がひりついて唇がいっきにかわいてゆく。

「わ、偶然だね。買い物?」

彼女はうれしそうに笑い、わたしの手首に軽くふれた。私服かわいいね、雰囲気ちがうね。わたしの家、すぐそばなのよ。そう言って、わたしに笑いかける彼女は会社で話すときよりもずっと、ずうっと素敵に、そして可愛らしくみえた。白のサブリナパンツに、ライトイエローのギンガムチェックのシャツがとても似合っている。休日の彼女。魅力的でまぶしくて、わたしは無意識にうつむいた。いやだ。化粧だってほぼしていないのに。髪だって、洋服だって、靴だって、あなたに会う準備なんてこれっぽっちもできていないのに。

「良かったらお昼、一緒に食べない?買い物終わるまで待ってるから。」
「いえ、あの、」
「遠慮しなくていいよ。って言ってもわたしが作るんだけど。ちょっと、何してるの。」

にこやかに彼女はそう言い、少し離れたところにいた彼の腕を引く。挨拶くらいしなよ。小さな声でささやく彼女に彼は微かに目をおよがせた。ここからいなくなりたいわたしになってしまう。みられたくない。みたくない。おなかの底のほうで、曇り空みたいな色のなにかがぐるぐるとうごめいているよう。そんな顔をされたら、そんな態度をされたら。普段会社ではまとめられている長い髪はおろされて、それもあいまって雰囲気がやさしくみえる。買い物かごの中にはパスタやむきエビ、ブロッコリーやベビーリーフなどがはいっていた。生活感がみえて、わかっていただろうに気のおけない仲の二人なのだと否応無しに知る。隣にいる彼と目が合った。口をつぐむのはどうして。ただ、ゆっくりと目をふせる。なにか、なにか言ってください。二人は付き合っていたの。だから休日もこうして二人で、スーパーで食材を選んだりしているの。会社でみる姿とは違い当たり前だけれどお互い私服で、はたから見れば二人は恋人だ。どうして。なぜ。うまく息ができなくて、何度も笑おうとするのに、それができない。どうしても、できない。

「ありがとうございます。でも午後から予定があって。」
「そうなの?残念だな。」
「あの、お買い物続けてください。お邪魔しちゃってすみません、失礼します。」
「えっ、待って。」

買い物かごを元の場所に戻しスーパーマーケットを出る。走ってしまったら感じが悪いから早歩きをしようなどと考える脳みそはやけに落ち着いていて、どうしてか理性を手放さずにいた。足がもつれそう。思うようにうごかない。買うものリストはポケットのなかでくしゃくしゃに丸まっている。空っぽの冷蔵庫が頭をよぎった。そんなことどうだっていい。

何も言ってくれなかった。ただ極まりがわるそうに目をふせただけだった。彼の目の奥に隠れる後悔がわたしにはすけてみえる。きっとわたしにさわってしまったことを、なかったことにしたいのだ。ふかく後悔しているのだ。やみくもに歩き続けるわたしの視界を見覚えのない景色が支配する。ここはどこだろう。どこだっていい。彼がいないのならどこだって。


「は、っ、う、…っ」

ジーンズにTシャツなんて、こんな格好ぜったいにみられたくなかった。手の甲で目元を乱暴にぬぐう。痛い、すごく痛い。きっとひどいかおをしていた。彼女にもへんに思われてしまった。

せんぱい。声にだしてみる。呼んだって、届かない。付き合っていないとどうしてそう思っていたんだろう。勝手に決めつけていた。考えたくなかっただけかな。だってほんとうにそう思ったの。浅はかだけれど、彼がさわってくれたことは、わたしのなかで確かな期待になっていたの。うれしかった。こわかったけれど、身体がふるえてしまったけれど。うれしかった、手をのばしてくれたこと。思い出したい。さわってくれた指のかたさ、表情、声。もうひとつだって思い出せないよ。思い出したってもう意味がないかな。とまって涙、おねがい。

「行くな…っ。」

焦れた声とともにつかまれた手首。後ろにぐいと引っ張られて、驚いてからだがすこしふらついた。終わりの予感を察知して、咄嗟に振り払おうとしたけれどかなわなかった。強い力。手のひらから彼の熱が伝わる。走ったのだろうか。額には汗が滲んでいた。浅く繰り返される呼吸に胸がつまる。そんな表情はいやだ、必死になるなんて。彼の次の言葉がこわくて余計に涙がでた。逃げたいのに、ここにいたい。もう本当に終わりかもしれない。涙をとめられないまま彼に向き直る。情けなく喉が鳴った。彼の言葉を待つかわりに、彼をわすれる準備をするのを、もうすこしだけ、まって。

何かを伝えるために追いかけて来てくれたのなら、わたしは彼の言葉を聞かなくちゃいけない。逃げたらいけない。彼はそうっとそうっと、わたしの手首をはなした。

「おれは、その、料理がてんでできねえから…。」

顔をあげる。目がはなせなかった。わたしをつなぎとめる理由を指折るように、彼はかおをあかく染めながらくちびるをうごかした。

「たまに作りに来てくれるんだ。ただ世話を焼かれてるだけだから。おまえが思っているようなことは何も、ない…。」

彼はわたしの言葉を待っていた。だんだんちいさくなってゆくじれったい声がわたしのからだにあたたかい風をおくるようだった。好きな女の子に告白をして返事を待つけなげな高校生のような表情をしていた。喉の奥がすうっと楽になる。ひきつれるように声の出しづらかったわたしはもうどこにもいない。からだの奥底でうずまいていたくろいもやもやはどこへ?彼のたどたどしい言い訳を、こんなにも信じたい。

「…だめですか。」

手を伸ばす。彼のひだりのおやゆびを握った。

「わたしはまだ、だめですか。」

料理ができないのならわたしが作ります。上手なんかじゃないけれど、あなたの好きなものを作れるようになりますから。覚えるから、だから。

わたしが彼に好きだとそう伝えたとき、困ったかおをした彼が言ったあの言葉を今でもずっと覚えている。身のほどを知らなかったちいさなわたしは、気持ちを抑えきれずにその分身勝手に傷ついた。あのときのわたしよりずっと彼のことが好きになっている。好きだといえる。

握った彼の指先が、わたしの手からはなれていく。こぼれそうになった涙をぐっと堪えて唇をかんだ。いたい。どこもかしこも、いたくてたまらない。下を向くわたしのうなじあたりに彼の手のひらが触れた。そっと引き寄せられて、胸のあたりにおでこがくっつく。あたたかい。声も、だせない。

「…だめじゃないよ。」



ふたりきり



あぶく
しずむかたまり
星が生んだ指先
End


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