しずむかたまりの続き
※現代



彼の、むかし付き合っていたひと。髪のながいひとだった。明るくて気さくなそのひとは、わたしにやさしく笑いかけ「よろしくね」とそう言った。そのとき自分がどんな表情をしていたのかよく覚えていない。彼はこういうおんなのひとを好きになるのかと、自分のつまさきを見ながらからっぽの頭で考えた。

今日から一週間だけ会社に滞在する系列会社のアドバイザー担当の女性は、彼がむかし付き合っていたひとなのだと周りがしきりに噂するので、その噂話はわたしの耳にも否応なしに入ってきた。休憩室で立花さんが彼をからかっているのを誰かが聞いたのだそうだ。事実なのだろう。彼があのひとのような女性が好きならば、わたしなどはもうどうしようもないと、そんなあきれた私情で頭の中は支配されていた。同じところなどひとつもない。探したところできっと見つからない。役柄彼女と対談する機会の多いわたしは、彼女の聡明さややさしさに触れる度、自分にないものばかりを見つけては胸を痛めた。浅はかな思考をきりはなしたい。わたしは、そんなわたしのことがいやだった。

「おはよう」

エレベーターを待っていると、ふいに後ろから声をかけられた。後ろに人がいたことなどまったく気付かなかった。横に並ぶ彼に、慌てておはようございますと返す。まるまっていた背中をのばし鞄を持ち直した。いつも、この時間なの?時計に目をやり時間を記憶する。一本はやい電車乗ったわたし、えらい。

「あいつとはうまくやっているか」

あいつの意味を一瞬で理解し反射的につくり笑いをしてしまう。ポーンと音が鳴り目の前のエレベーターのドアが開いた。

「はい。とてもいい人でやさしくて…あの、お世話になりっぱなしです」

エレベーターに乗り込みながら彼を見上げると、そうかと言ってすこしだけわらった。彼女に対するわたしの気持ちは嘘ではなかった。右手で左のカーディガンの袖をさわる。なんだか居心地がわるかった。

「それならいい」

あのひとのことをもう好きではないことなど見ていたらわかるのだ。噂されていることは本人たちもわかっているだろうに、談笑する姿を隠したり周りの目を気にしたりしない。野暮なことを噂する気にはなれなかった。わかるもの。見ていたら、わかるもの。あのひとを気にかけたのではない。彼はわたしを気遣ったのだと言い聞かせる。気持ちは落ち込むばかりだ。そんな気休めはきかない。朝からついてるよ、そうでしょう。エレベーターで一緒になれるなんてはじめてだよ。落ち込む必要なんてないよ。くちびるをそっとかんだ。

「今日の飲み会、どうするんだおまえは」

彼の声にはっとして思わずいくつもりです!とおおきな声がでた。はず、かしい。彼はおかしそうにふ、とわらう。楽しみにしてるみたいじゃないか。そんなつもり、ないのに。

「お、お酒はあんまり得意じゃないんですけど」
「はは、見た目通りだな」
「!」

ついたぞ、と促され当たり前のような開けるボタンを押していてくれる。わたしはやはり慌てて外に出た。なんだか今日は機嫌がいい気がするな。潮江先輩、なにかあったのかな。




隣に座れるとは流石に思っていなかったけれど、こんなに席が遠いなんて。もう今日は話せないと考えたほうがよさそう。当たり前に同期の友達がわたしの隣。彼にはほど遠い。仕方ないけれど、どうにもできないけれど。立花さん、そこ代わってください。先ほどから隣の男がうるさい。好きなタイプなんてこたえたくない。あそこに座ってビール飲んでるでしょって叫びたい。到底言えないけれど。作り笑い、つかれたよ。友達は目の前の男の人と楽しそう。

「あの、ちょっとお手洗い」
「すぐ戻ってきてよー」
「あはは」

荷物をもって席を離れた。店の入り口のそばの壁に寄りかかる。冷えていて気持ちいい。すこし飲みすぎてしまったかもしれない。楽しそうだったな。わたしもビールがおいしいと思えるようにはやくなりたい。いつか二人でお酒を飲んだりしてみたい。なんだか先輩が遠くて、とっても遠くにいるみたいに思えて、すぐ近くに彼はいるのにへんな気持ち。あたまがぼうっとする。ああ、酔っている。下を向くとすこし気持ちわるかった。

「飲めないんじゃなかったのか」
「…せんぱ い」
「大丈夫か。具合わるいなら帰ってもいいぞ」

背広を腕にかけた彼がわたしの顔をのぞきこむようにして立っていた。背をかがめる彼に大丈夫ですとうつむき前髪で顔を隠す。きっとあかいから、こんなわたし、見られたくない。隠せるわけないけれど。

「あの、どうぞ、お手洗い」
「ちがうよ」

わたしが道をあける仕草をすると、彼は眉をひそめた。ちがうってどうして。もしかしてわたしを追いかけてきてくれたの?知っていてくれたの?わたしが先輩ばかり見ていたこと、気付かれていた?なんと言ったらいいのかわからずに片手をついて壁にもたれる。なにか言ってください。わたしは、だめだから。わたしからは何も言えないから。

「ちょっと待ってろ」
「えっ、あの、」

そう言い捨てるなり踵を返して戻って行ってしまった彼の背中をぼうっと見つめていた。ひたいに手を当ててみる。てのひらが熱をもっている。気持ちを落ち着ける間もなく戻ってきた先輩は、今度はきっちり背広を着ていた。

「ほら、帰るぞ。抜けるって伝えてきたから」
「ええっ!?ま、待ってください!」
「なんだ。戻りたいのか」

どうして、そんなかおしているの?

「ちがいます、先輩、せっかく飲み会なのにわるいです、一人で帰れます」

以前、同じようなやりとりをしたことがあることを頭のすみっこで考えた。あのときも彼は引き下がってはくれなかった。具合なんてわるくない。お酒を飲んだら大抵こうなる。帰るほどじゃない。全然へいきなのに。持っていた鞄をすくい上げるようにうばわれる。そんな、だめだよ。せんぱい。わたしの断り方には力がない。うその言葉ばかりがくちをつく。一人でなんて帰りたくない。ほんとうは、ほんとうは心配してついてきて欲しいの。

「もうタクシー呼んだ」

早鐘を打つ鼓動に胸のあたりをぎゅっとおさえた。勘違いしたらいけない。いけないの。うれしいと思ってはだめ、だめ。



乗り込んだタクシーの中では終始無言で、わたしが謝っても彼は短くいや、と応えるだけだった。ずっと窓の外に視線をやっている隣の彼を、右肩のいちばんはじっこで感じていた。わたしのアパートのエントランスの前にタクシーが止まる。さっと料金を支払われてしまいわたしは慌てて財布に手をのばす。彼が先にさっさとタクシーから降りて行ってしまうので、わけもわからずただ後を追ってタクシーを降りた。どうして先輩もここで降りるのだろう。相変わらず頬はあつかったけれど、酔いはほどよくさめていた。

「あの、お金…」
「ずいぶん楽しそうだったな」
「…え」
「結構飲んだんじゃないのか」
「…どうして怒ってるんです」
「怒っちゃいねえよ」
「だって」

は、と彼がちいさく息をはいた。すっとのびてきた手。目の前まできたそれに思わず目を閉じた。―――かたい親指が右の目のしたにふれて、目尻のほうまでをそっと撫でる。うごくなと、そう言われているような気がした。彼の目から目がはなせない。喉のおくがはりついたよう。乾いて声を出すことができない。つまさきから頭のてっぺんまで、びりびりとなにかがかけめぐった。手はわたしの肌からはなれない。耳にかけていた髪がするりと頬にかかる。一瞬はなれた指先にまたたきをすると、耳のうしろ、首のあたりに彼の手の甲がさわった。息をのむ。びくりと肩がおおげさに揺れた。

「っ!」
「わ、るい」
「…い、いえ」

ぱっと手を離される。なにがおこったの。彼はいまわたしに、なにをしたの。浅い呼吸を繰り返す。なみだがでそうだった。右目の下、ふれられた感覚がまだ残っている。

「じゃあ、帰るから」
「あっあの、どうやって」
「電車」
「…あ、そう、ですか」

暗くてわからない。どんなかおをしてるの。

「せんぱい」

歩き出した背中に駆け寄って、手をにぎった。引きとめるように右の手を両手で握る。これがわたしの精一杯だった。

「ありがとう、ございまし…た。おくって、くれて」
「…ああ」

手をそっとはなす。あかるいほうへ歩いていく彼の後ろ姿にぽろぽろと涙がでた。好きだと、そう、言われているみたいだった。耳の後ろにふれてみる。酔ってたのかな。なにを考えてたのかな。きっと、すこし酔ってたんだ。じゃなきゃきっと、こんなことしない。わたしのことそういうふうに見れないって言ったの、先輩だもの。

こんな、ひどいよ。簡単に熱をもたされて、ひとりにするなんて。おいていっちゃうなんて。おいていかないで。ここにいて。酔ってるせいでいいから、それを理由にしていいから。行かないで。



星が生んだ指


続きます
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