あぶくの続き
※現代




「本当にすみませんでした、わ、わたしの手違いで」
「いい。おまえが謝ってもどうにもならんだろう」
「でも、…っ。わ、わた」
「顔上げろ、もう謝るな」

予約したはずだった、しなければならなかった部屋は二部屋だった。ビジネスホテルに着きチェックインをするとわたし名義で予約できている部屋はひとつだけ。ツインルーム。疲れていたはずの体は急激に緊張して熱を持った。二人で出張だなんて聞かされて気負いすぎたんだ、浮かれすぎてしまったんだ。頭がまっしろになる。すぐそばに立っているこの上司にわたしはなんと言えば。ああ、どうしてこんなことに。明日も朝が早く今は既に深夜のため、すぐに部屋にいき明日の打ち合わせをして少しでも眠っておかなければならなかった。先ほど彼がそう言ったばかりだというのに、わたしは。泣いてはいけないのだけれど、わたしはこの人にだけは嫌われたくないのだ。彼は絶対に迷惑をかけたくないその人なのだ。どうか信頼していて欲しいと、切に願っていた人なのだ。彼の前でこんな失敗をする自分など信じたくなかった。だれか、だれか、だれでもいいから、全部嘘だと言って。

しかし彼は驚いた表情さえ見せたものの、取り乱すことはせずフロントデスクの女性に事情を説明し、空きの部屋がないかどうか確認し、ただひたすら謝るわたしに労りの声をかけた。今夜不運にもビジネスホテルは満室だった。とりあえずいったん部屋に行ってからこれからどうするか決めようと彼は言った。わたしはうつむき頷くことしかできなかった。フロントデスクの女性が心配そうに私たちを見送る。お姉さん、そんな顔するならもう一部屋私たちにください。もうこれで与えられた仕事も満足にこなせない奴だと思われてしまった、きっと、先輩はやさしいからそこまでは思わなくとも、少なからず幻滅しているだろう。もう消えたい。ただただ、浅い呼吸を繰り返していた。

「先輩、あの」

部屋に入りソファに荷物を置く仕種。かるくネクタイをゆるめて、それから近くのボックスティッシュに手を延ばし鼻をかんだ。その一連の動作をわたしは入り口に突っ立ったまま見つめていた。あまりの申し訳なさに頭が痛くなってきた、どうしよう、なんて言ったら、わたし、

「軽く打ち合わせして、それが終わったら…そうだな、近くのカラオケでも探すよ」
「えっ、ま、待ってください。それならわたしがカラオケに行きます」

慌てて彼のそばに駆け寄る。そんなことあなたにさせられるわけない。足がもつれて隣のベッドに倒れそうになった。そんなわたしを見て先輩は呑気に笑っている。笑い事じゃない。笑い事じゃないよ、どうして笑ってるの。泣きそうな顔するわたしのこと、そんなふうに笑わないで。今にもこぼれそうな涙の根っこのとこ、おさえるの必死なのに。

「何言ってる。危ねえだろう。おまえはここにいろ」
「そんな、いいです。だってわたしのせいで」
「ミスは誰にだってあることだ。おれだってする。」
「カラオケにはわたしが行きます、先輩こそここにいてください」
「あのな、責任感じてるならもう黙れ」

そんなこと言って先輩、つかれたかおしてるよ。そんなやさしくして、わたし、もうだめだよ。胸がつまって鞄を持つ手に力が入る。立ったままのわたしを見かねた彼がわたしの手首にかるく触れた。やさしい力で引っ張られて、向かい側のソファに座るよう促される。肩の力がふっと抜ける。

「こんなことしでかしたのがおれの前で良かったな。もうするなよ。」

こんなことしたのに笑っている潮江先輩にどうしようもないほどすくわれて、ああ、ゆらゆらと視界が滲んでしまう。ぼたぼたと涙がこぼれた。とめられなかった。おい、泣くなよ、相も変わらず微笑みを携えている先輩に差し出されたハンドタオルを躊躇いなく受け取る。顔に押し当てて肺をハンドタオルのにおいでいっぱいにした。ラベンダーミントと、ちょっぴりシトラスのにおい。いつか乗せてもらった彼の車のにおい。先輩、洗って返すからゆるしてください。

「せんぱい!!!」
「っうお」

突然立ち上がったわたしに彼は目をまんまるくしてる。ハンドタオルを顔に押し当てたままでなければ、わたしの提案など彼の顔を見て言えそうになかったから。

「せ、先輩がいやじゃないなら、その、ここに泊まりませんか。いっしょに。かっ、カラオケは、お金がかかるし、今から探したら、睡眠時間も削られるし、わたしのミス、で、こんなことになってしまって、何言ってんだって、かんじだけど」

声、ひっくり返った。ぶつぶつと途切れてしまう。何を言っているのか自分でもよくわからない。伝わっているのかさえ、わからない。恐る恐るハンドダオルを外して彼に向き直る。でもほんとうは、どんな顔してるのかわかってた。ごめんなさい、わたし、期待してた。笑ってくれるって、思ってた。

「ふ、」

小さな笑い声に安心してわたしも涙でぐしゃぐしゃの顔でつられて笑う。ああ、わらってる。本当にゆるしてくれている。うそじゃない顔してる。よかった。よかった。

「おれはかまわないよ、おまえがいいならな」
「…潮江、せんぱい」
「何もダブルベッドで寝ろと言われているわけじゃねえからな。…本当にいいのか」
「いやなわけ、ないです」

か細い声でやっと喉の奥から声をしぼり出すと、今度は視線を背け、彼はそうかと言った。隠せない想いは見抜かれて、確かに、そして簡単に壁をつくられる。今のはわたしが悪いから傷つくのはお門違い。でもやっぱり、かなしかった。涙もすこし、がまんできなかった。

「おまえも疲れてるだろう、こんなもん早く終わらせてさっさと寝るぞ」
「は、はいっ」

しらないふりしてるの?



・・・・・




隣のベッドに彼が寝ているというのにわたしは昨晩ぐっすり眠れてしまったようで、今朝の目覚めはとてもすっきりしていた。わたしが起きたとき彼はもう既に起きていて歯をみがいていた。ほっぺたがふくらんでる。なんだか横顔が眠たそうで少し笑うと、わたしに気付いてもごもごとおはようが返ってくる。くすぐったくて枕に逆戻りしながらおはようございますと言った。両のほっぺたがあつい。とおくでおかしそうに笑う先輩の声が左耳にやさしかった。潮江先輩って意外とよく笑う人だ。

「いつまで寝てる気だ。今日もはたらくぞ」
「はいっ」



「聞いたぞ、一緒に寝たんだってな」
「…語弊がある」
「あいつはさぞ嬉しかったんじゃないか。憧れの潮江先輩と一晩過ごせて」
「うるせえ。んなわけねえだろう。用がないなら切るぞ、待たせてるんだ」
「まあ待て。まさか彼女と何もなかったわけではあるまい、ん?」
「仕事しろ、じゃあな」
「なっ、おい文次ろ」





「先輩、立花さんなんて?」
「……」
「潮江先輩?」


しずむかた
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