「ほんとかわいくないのな」
「いいよ、かわいくなくて」
「そういうとこが、」
「わたしがかわいいって思われたいのは潮江先輩だけだから」

また始まった。ああ、かわいくない。淡泊なこの女がどうしてそこまであの人にこだわるのだろうか。特別愛想が良いわけじゃない。お世辞にも顔が良いとは言えないだろう。おれはあのひとを嫌いなわけではないが、好きにもなれないのはこの女のせいだ。子供じみた理由かもしれない。けれど好きにはなれない、きっと、これからも。あの人がやさしいのも面倒見がいいのも、わかっているけれど。
図書館の冷房は相変わらずきき過ぎていて肌寒い。こいつはこんなところにずっといて寒くないのか。頬杖をついて右となりにいる彼女を横目に見る。彼女の着ているシャーベットカラーのカーディガンが、とても似合っていてかわいいと思った。

「あのひと彼女いるじゃん」
「うるさい」
「それも超美人でおまえみたいなかわいくない女にもやさしくしてくれるいいひと」
「…うるさい」

潮江先輩には彼女がいた。もう付き合って三年になる。大学一年のときからだから、こいつが入り込む隙間なんてどっこにもないってきっとわかっているはずなのに。バイト先で知り合った潮江先輩に恋心、もはや執着のようなものを抱いている。大学の図書館で週末が締切日のレポートに追われている彼女を見つけて隣に座った。少しからかってやるつもりだったのに、彼女の横顔はひどくつかれているように見えた。それでも黙って隣にいることはできなかった。

「告白もできないくせに」
「…振られたら、いやだから」
「はあ?振られるってわかってんのかよおまえ」
「わかってるよ」

冗談のつもりで言った言葉が気に障ったらしく言い争いに発展した。自分が何を言って彼女を怒らせたのか、わずか数分前のことさえ既に忘れていた。彼女の声はたくさんのするどい針をまとったようにおれにずぶずぶささっていく。痛いな。なんでおれにはそうなの。あいつの前ではもっとやさしい声で話すだろう。おれだってこんなこと思いたくないよ、おまえがかわいいのなんておれがいちばんよくわかってるつもりだよ。おまえのことかわいいって、いつも思うよ。

「ちゃんと、わかってるよ」

彼女はおれを見なかった。ただレポート用紙に視線を落としうつむいていた。彼女の字は少しくせがあるけれどとてもきれい。すぐにわかる、彼女の字だって。先日美容院に行ったばかりだという彼女のすこし短くなった髪がさらりとながれて頬を隠す。髪の色を変えたことにおれはすぐに気付いたよ。似合ってる。口では伝えられなかった、心のずーっと奥の方で思っただけ。彼女はうすい唇をぎゅうと噛みしめていた。おれは一瞬で後悔をした。

「…一人暮らし始めたとき、わたし毎日泣いてた。お母さんに会いたくて、勉強だって不安で、最初は新しい友達の前じゃ素でいられなくて。潮江先輩、やさしかった。やさしくしてくれた。バイトで失敗したとき、なぐさめてくれた。いっしょに帰ってくれた。いっしょにごはん食べてくれた。泣いたのにも気づいてくれた。たくさん、やさしくしてくれた。」

泣きだすかと思った。しかし彼女は至極しっかりとした口調でくちびるを動かした。自分のほうが身構えていた。浅はかで苦しかった。そんなに大切に話すな。おれにわからせるような話し方をしないでくれ。

「知ってるよ、わたしがかわいくないことも、潮江先輩が、わたしのこと好きじゃないことも、そんなのわかってるよ」

彼女がおれに向き直る。やはりそのおおきな両目には、こぼれんばかりにたっぷりと涙がたまっていた。泣いてくれた方がよかった。泣くのを我慢している彼女にどこかで安堵している自分がいた。不謹慎だけれど、その涙をおれが拭ってやりたいと思った。あの人はきっとおまえを見てはいないから。

「潮江先輩は、わたしのこと好きじゃない」
「ごめん」
「…鉢屋」
「なあ、おれ」
「はちや」

ずっと見てた。あの人を追う彼女の視線を。何を考えているのか知りたかった。ひたむきな表情が、うらやましかった。誰かをそんなふうに好きになれる彼女が、とても。

「おれはおまえのことすきだよ」
「…うん」
「はは、知ってたんだ。ひどい女」
「あ…」
「本当、ひどいよ、おまえ」
「…鉢屋、な、なかないで」
「おまえのせいだろが」

ぽろぽろ涙がすべってく。格好わるい。彼女の涙はとっくにかわいていた。どうしておれが泣くことがある。なにも泣くことないだろう、好きな女の前で。そう思うのに。どうして。

「じゃあキスして、ここに」
「え…」
「そしたら泣き止む」

駄々をこねるように彼女のカーディガンの裾を引く。身を乗り出すおれに彼女は迷いもせずひたりと唇を合わせた。自然な動作だった。余計に、涙がでた。彼女がおれを好きでないことがかなしいとは思わない、わかっていたことだ。悔しくもない、妬みもしていない。

「…なにしてんの、おまえ」
「だって鉢屋が」
「こういうのは好きなひととしかやっちゃいけないの。知らないの、」
「それ、わたしが鉢屋のこと好きじゃないみたいな言い方だね」
「…実際好きじゃないだろ」

彼女がこくりと息を飲む。のばそうとした手を引っ込めた。気付かない振りをする。しまっといてくれよ。いらないよ、欲しくないよ。おれが欲しいのは違うんだよ。

「言わせんなよ」
「あ…」
「おれだって、何も思わないわけじゃないよ」
「何言うの、好きだよ。わたし鉢屋のこと好きだよ。」
「うん」
「泣かないで」
「…うん」

おれの顔を覗き込む彼女は、カーディガンの袖を引っ張り目許をためらいがちにそっと拭った。毛糸は涙をすってはくれない。いたい、ばか。彼女とはきっと分かり合えない。彼女は目の奥でおれをみていない。わかってしまう自分がうらめしい。ああ、けれど諦めることさえままならない。ほんとうは泣くなんていちばんいやだったんだ。いつだってかっこつけていたかった。だから駄目だったのかな。だから、勇気がでなかったのかな。

まちがわないよ
だからそっちにつれてって
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