※現代


悪いけど、お前をそんなふうに見たことはない。

喉の奥があつい。思い出すだけで胸がひどく痛んだ。キーボードを打つ手がとまる。長時間座っているせいで肩と腰がいたかった。にぶく光るパソコンの画面には作りかけの文書がうつしだされている。終わりは見えていた。今日は終電ギリギリになってしまうかもしれない。誰もいないフロア。静かで無機質なパソコンの音だけが耳を占めていたはずなのに、そこにかつかつとゆったりとした足音が混じるのが聞こえる。誰だろう、上司だったら怒られるかもしれない。こんな時間まで残っているなんて。ふと、消せない淡い期待が頭をよぎる。さっきまでわたしの頭の中をしめていたひと。こういう考え方を、やめなくちゃいけないのに。都合の良い思考回路。ガチャリとドアの開く音に顔を上げる。そこには、彼が立っていた。

「…まだ残ってたのか」
「し、潮江先輩」

つかれたかお、してる。声も、ちょっとすれてる。髪、朝より少しみだれてる。出張先、大変だったのかな。あっ、お疲れさまでしたって言ってない。何か気の利いたこと言えないの、せっかく彼とふたりきりなのに。今更考えたって、そんなのひとつも思い浮かばない。

「こんな時間までどうした」
「あの、報告書をかいてて。すみません、もう終わるのですぐに出ます」
「何かやらかしたのか」

デスクに手をついて、パソコンを覗き込む仕草。わたしはうつむいてしまう。まだ、どんな顔をしていいのかわからなかった。空気がやさしく揺れる。触れたくなってしまう。寒さであかい指先がせつない。彼はもうなかったことにしている。わたしも、忘れなくちゃいけないのに。今まで通りに振る舞いたいのに。どうして来たんですか、今日は出張だったはずでしょう。そのまま直帰するって昨日そう言っていたじゃないですか。期待したわたしも、本当にどうしようもないけれど。

「ちょっと、ミスしてしまって」
「コピー機壊したの、お前だろう」
「えっ」
「やっぱりか」

くく、と笑い声をもらした彼はめずらしく子供のような表情をして笑う。簡単にわたしの胸は締め付けられるみたいにくるしくなって、どうしよう、体が火照る。あつい。わたしの思っていることすべて、透けてしまえばいいのに。先輩、好きです。好き。好きなんです。抑えたくない。今すぐ抱き着いて、好きだとそう言いたい。今の顔、シャッターきりたい。携帯に保存したい。もっと彼といろんなことしたい。どうしていいのかわからなくて思わず唇をかんだ。駄目だ、嫌われたくない。これ以上、遠のきたくない。気持ちがごちゃまぜになってわたしを揺さぶる。どれが本当のわたしかわからない。

「送る」
「はっ、え?」
「今からじゃ終電に間に合わんだろう。」
「いやっ、駅までタクシー使えば間に合うので」
「いいから早く終わらせろ」
「は、はいっ」

椅子から落ちそうになってまた笑われる。天にも昇る気持ちって、きっとこういう気持ちのことをいうんだ。体がきゅうと引き締まるみたいにあつくなる。うそ、こんなことってあるの。肩と腰のいたみはどこへいってしまったのだろう。同僚に大量のコピーを押し付けられて、おまけに壊したコピー機の報告書まで作った甲斐があった。こんなご褒美が待っていたなんて。送るって、先輩の車に乗せてもらえるってことだよね。助手席に、座れるってことだよね。と、ここまで考えてはっと我に返った。あの日給湯室で言われた言葉を思い出す。あのときの彼の表情を思い出す。気持ちがすっと冷えていく。みるみるうちにあつくなった身体が、浅ましいと思った。

「終わったら声かけろな、」

そう言って先輩は自分のデスクに向かう。急に息がしづらくなって、瞼をぎゅうっと閉じた。手に汗を握る。喜んじゃいけなかった。そうだ、わたし、喜んだって意味がないんだ。やさしくするのは後輩だからだ。わたしだからじゃない。わかってる、わかってるよ。だからどきどきしちゃ駄目だよ。緊張だって、しちゃ駄目。普通にしなきゃ。指先をキーボードに走らせる。おおきく息を吸い込んで、ゆっくりとはいた。大丈夫、きっと普通にできる。必死に文字を追いかける。今はこれ以上彼を待たせちゃいけない。まずは早く報告書を終わらせよう。余計なことは考えるな。考えるな。


・・・・・



車内はやわらかなラベンダーミントと、ちょっぴりシトラスの香りがした。心音が聞こえる程に緊張している。ああ、こんなに居た堪れないのなら断ってしまえば良かったんだ。終電の満員電車のほうがいくらかましだったかもしれない。けれど上司と車内で二人きりという誰だって緊張するこの状況は、誰だって、を理由に今のわたしを正当化したいと思っている。緊張してしまうのは仕方の無いことだ。わたしだけじゃないはずだから。だから、ゆるして。こんなにばくばくうるさい心臓も、冷え切った指先も、ぜんぶ、ゆるしてください。気付かないでください。信号が赤に変わる。潮江先輩の運転、すごく丁寧だ。発進もブレーキも滑らかで、絵に書いたような安全運転。どうして気付いてしまうのだろうと自分に嫌気がさす。運転は性格が表れるっていうけれど本当だ。やさしい。さっき手渡されたブランケットを握った。普段はこのブランケット、誰が使っているんですか。今まであなたに送ってもらった部下は何人いるんですか。いやな気持ちばかりが先走っていつものわたしをうばっていく。ますます彼にのめり込んでしまう様な、好きになってしまう様な、そんなところばかりを見つけてしまう。こんな浅ましいわたしを知ったら、彼は。

横顔をちらりと盗み見る。前言撤回。断らなくて良かった。だって、かっこいいんだもん。先輩、かっこいいんだもん。もう二度と乗ることもないだろうから香りだって覚えていたくて、苦手なラベンダーにもかかわらず思い切り肺に吸い込んだ。やっぱりちょっと苦手な香りが、くやしい。

「げほっ」
「…ん?」
「あ、あの、今日はそのまま帰るって」
「ああ。車から電気点いてるのが見えたんだ。どうせなら戸締まりしていこうかと思ってな」
「そ、ですか」

声を聞いてこうして言葉を交わすだけで、さっきまでの感情も嫉妬もぜんぶどこかにいっちゃうの。落ち着いた声音に目を閉じたくなる。

「あんまり無理するなよ」
「え」
「…その、なんだ。おまえみたいなんは定時に上がっても誰も何も言わんだろう」
「いやっ今日はたまたま遅くなっちゃって、いつもは…」
「でも、最近多いよな」

胸がくるしいよ。うれしいって思っちゃうよ。知っていてくれたこと、気にかけてくれたこと。ちょっとやさしくされたくらいで簡単に熱を持つ体。いやだ、こんなのはいやなのに。ね、先輩、なんで知ってるの?誰に聞いたの?きっと何も思ってはいないんだろう。だからいつも通りわたしに接することができるのだろう。気まずいとさえ思わないほどに、わたしのことを見てはいないのだろう。わかっていてもやめられないときはどうしたらいいの。どんな女の人をそういうふうにみるの?わたしは、女らしくないですか。あなたからは幼く見えますか。これからも、わたしが何をしたって、何も変われないですか。道順をただ彼に教えるだけの淡々とした会話に変わっていく。もっといろんなこと話したいのに、会話を上手に広げられない。勇気が出ない。このままずっとアパートに着かなければいいと思う。苦手なこの香りに包まれていたいと思う。

「すみませんでした、わざわざ送ってもらっちゃって…。助かりました、ありがとうございました」
「帰り道の途中だよ。気にすんな」
「でも、先輩の帰り遅くなっちゃった…」
「つまんねえこと気にしてねえではやく寝ろ」

ここで、お別れ。当たり前だ。また明日会社で何事もなかったように挨拶をして、仕事のことで話をして、何も変わらないこれからが始まる。変えちゃいけないこれからが始まる。今日の出来事も彼のなかでうずもれていく。結局アパートのエントランスの前まで来てもらってしまった。車を降りる。夜風はつめたかった。火照った身体を否応なく冷やす。

「じゃ、また明日な」
「はいっ、お、おやすみなさい」
「おやすみ」

リアサイドウィンドウが、閉まってしまう―――

「せんぱ、う、あ…あの!」
「?どうした」
「はあ、すみません。ちょっと待ってください」

呼吸を落ちつけようと浅く息を吸って、はく。どくりどくりと心臓が動いている。呼びとめてしまった。忘れないで欲しかった。まだ行かないで欲しかった。かたちに残るものが欲しかった。

「おい、どうしたんだ」
「け、携帯の番号を、教えてください!」
「…ばんごう?」
「だめ…ですか」
「あ、いや」
「用が無いときはかけません。それに、あの、使わないかもしれないし。番号知っておけばこれからいろいろと便利かなって、思って…」

どんどん小さくなっていく声は断られるかもしれないと、そんな空気を感じたから。用が無いなら電話なんてかけないのが当たり前だ。仕事のためだなんて苦しい理由はきっと嘘だと見抜かれている。今、どんな顔をしていますか。心底こわかったけれど、覗き込むように首をかしげた。一瞬伏せられた目。それからジャケットのポケットに手を入れる仕草。

「ほら」

差し出されたシンプルな黒の携帯画面には、11ケタの数字。画面の光がまぶしかった。

「いいんですか」
「いらないならしまうぞ」
「あっ待ってください今登録します」

iPhoneに彼の名前を打ち込んでいく。指がふるえた。かじかんだ指先はうまく動いてくれなかったけれど、それでも一生懸命彼の名前と携帯の番号を打ち込んだ。いつもの倍時間がかかった。間違っていないかどうか、何度も確かめた。必死なわたしを彼は、そんなに焦ることないだろうと笑った。

「本当にありがとうございました」
「もう言い残したことはないか?」
「なっ…、ない、です」

あ、からかわれている。うれしさに全身がぶわっとあつくなる。だってこれって、仲が良くなきゃできないことだもん。こんなの、こんなのって。少しはわたしに気をゆるしてくれているのかな。彼の目がやさしく細められてゆるやかな弧をえがいた。わたしのだいすきな表情。ああ、あふれていく。だいすき。すき。

「じゃあまた、明日な」

お願い、わたしを拒まないで。

「おやすみなさい」

お願い、そんなふうに見たことないなんて言わないでください。努力します、わたし、頑張りますから。だから。車が走り出す。見えなくなるまで見つめ続ける。iPhoneを握りしめた。労りの言葉も悪戯な表情もぜんぶがうれしかった。明日なと笑った顔がやさしくて涙が出そうだった。おやすみなさいと言ったわたしはちゃんと笑えていただろうか。声はいつも通り出ていた?わからない。しばらくその場から動けなかった。うれしいのに、悲しくて、この気持ちをどこにぶつければいいのかを知らない。消し方もわからない。先輩に彼女がいるのかどうかさえわからない。嫌われたくない。彼のことばかりを考えた。きっとこれからもわたしは、彼以上の人に出会えない。そしてわたしの胸の奥深く、突き刺さった言葉は消えない。

悪いけど、お前をそんなふうに見たことはない。

数日前わたしは彼に告白して、振られているのだ。



あ ぶ く


つづく
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