彼についた嘘の数の続き

「ちが、これは、」
「なまえ」
「っ、違うの、ちがう」
「待って、なまえ」

彼は、傷付いた表情をしていた。今までわたしを傷付けていたことに気付いたやさしい彼は今、そんな自分自身に傷付いていた。彼が人一倍やさしいのをわたしはわかっていたから、知っていたから。言うつもりなんてなかったのに。好きだと言えば困った顔をするのもわかってたよ。きっと悩んでしまうのも、知ってた。

そんな顔をさせたかったわけじゃなかった。ただ、やさしく目尻を下げて笑う顔がみたかった。ありがとうと微笑む彼の顔しかわたしは、思い浮かべていなかったのに。こんなことになるなら、喜んでもらおうなんて思わなきゃ良かった。彼がずっと欲しがっていた本を町で見付けたときのうれしかった気持ちも、本を渡したら彼はどんな顔をするのかと待ち遠しかった気持ちも、全部ぜんぶ、忘れてしまいたいよ。こんなに苦しいなら、もう、わたしは。

「なまえ」

彼がわたしに近付こうと動く。わたしはびくりと肩を揺らして後ずさった。何を、言う気なの。正座を崩し立ち上がる。いきなり立ち上がったからか、少しよろけて右肩が本棚にぶつかった。いたい。鈍い痛みも構わずにそのまま図書室を飛び出す。雷蔵がわたしの名前を呼ぶ。わたしを見てくれていないことなんて始めからわかっていたでしょう。足掻く自分も、それを認めたくない自分も、本当はわかっていた。あのこを見る彼の目でわたしを見てほしかった。彼が好きだった。それでも彼が好きだった。足がもつれてうまく走れない。似合わない彼の乱暴な足音が、近付く。雷蔵、わたしこんなに雷蔵のことが好きなんだよ。どこに持っていけばいいの?この気持ち、もう持っていたくないの。

「なまえっ、!」
「ら、いぞう」
「どうして逃げるの、言ってくれなくちゃわからないよ」
「来ないで、おねが」

わたしが持ってきた本を片手に、もう一方の手でわたしの腕を掴む。いたい、捕まれている部分がいたくて仕方ない。振りほどきたいのに、離してほしいのに。こわくて彼の表情を見ることができない。わたしを引き止めるその手だって、本当のことを言えばきっと頑なにわたしを拒むのでしょう。受け入れてはくれないでしょう、受け止めてはくれないでしょう。やさしくしないで、やさしくするならちゃんとわたしを好きになってよ。あのこじゃなくて、わたしを。

「行かないで」

ぐいと腕を引かれ、振り返る。彼に泣き顔をみせるのは、きっとこれが初めてだった。泣くのは決まって鉢屋の前だったから。彼はうすい唇をきつく噛み締め、泣きそうな表情をしていた。どうして雷蔵がそんなかおしてるの。彼の目があんまり真っ直ぐでこわくなる。呼び止められたらわたしは、あなたを忘れられなくなるよ。こんなふうに、うれしく思ってしまうよ。いやな女になっちゃうよ。涙をこらえていればこんなことにはならなかったのに。こうして彼が傷付くことも、なかったのに。

「うれしいよ」
「っ、」
「なまえが僕のためにこの本を探してくれたなら…僕は、うれしいよ」
「やめ、て」
「うれしかった、本当だ」

ぎゅうと腕を掴む力が強くなる。同時に胸がぎゅうぎゅう締め付けられて、くるしくてくるしくてどうしたらいいかわからなくて、後から後から涙がこぼれた。熱い手の平にわたしのそれを重ねたい。二度と離さないでとそう言いたい。目頭が熱くって、制服の袖でぐしゃぐしゃと目元を拭った。どうしてこぼれる涙なのか自分でもわからない。ただ、これだけは。雷蔵が本当のことを言っていることだけは、わかっていた。彼の息はきれていて、揺らがない瞳には必死の色が映っていて。繕った嘘を吐いているようにはどうしても見えなかった。それが余計に、つらかった。わたしは上を向けないまま彼の肩に額を押し付ける。胸がつぶれそう、今までわたしがころしてきた気持ち全部、わかって欲しいよ。知っていて欲しいよ。やさしい言葉をくれたって彼が好きなのはわたしじゃないって、どうしてそう思わせてくれないの。

「気、遣わなくていいよ、」

痛々しいほどふるえる涙声が、彼に届いているかどうかさえもうわからなかった。

「どうしてわたしから本をもらってうれしいの」
「なまえ、違うよ、そんなことは関係ないんだ。僕が言ってるのはそういうことじゃない」
「そんなことってなに?じゃあ何のこと言ってるの、」
「なまえ」
「他に好きな人がいるって、どうして言ってくれないのっ!」

はっと息をのむ彼を、わたしはこれ以上傷付いて欲しくないと思うのに、口から出るのは彼を傷付ける心ない言葉ばかりで。駄目だ、このままここにいたらわたし、きっともっと彼を傷付ける。

「すき、だったの」
「……」
「雷蔵のことが、すきだったの」

顔を上げると、目を伏せていたのは彼のほうで、わたしの告白におどろいたのか、見開かれた瞳と視線が交わる。ぼやけた視界には確かに彼が映っていた。涙が止まらなかった。後から後から止まらなかった。確かにすきだった。そうなの、わたし、すきだったの。ずっとずっと前から、雷蔵のことが、すきだったの。本当に、本当に、すきだったの。

「…ごめんね」
「……」
「勝手にすきになって、困らせて、…わたし」
「なまえ、」
「も、やめるね…」

わたしがぎゅうぎゅう握り締めていたせいで、しわくちゃになってしまった彼の制服。ごめんねって、言いたい。たくさんごめんねって、言いたい。制服しわくちゃにして、ごめんね。好きになって、ごめんね。困らせてばっかりでごめんね。ひどいこと言ってごめんね。良いことなんて一つもなかったね。ほんとに、ごめんね。彼の隣を通り過ぎる。今度こそ彼は、追い掛けては来なかった。

・・・・・・



「兵助が心配していたよ、おまえが食堂に来ないから」
「…うん、後で謝っておく」
「具合でも悪いのかい」

小さな池のある縁側、食堂の近く。きっと来てくれると思っていた。彼の微かな足音にさえ、わたしは、涙が出そうになる。陽ももうすぐ暮れてしまう。けれど涼やかで、穏やかな空気だった。わたしのくすんだ気持ちは彼の表情とこの空には似合わないなと、そう思った。

「雷蔵も、今のおまえと同じくらいかなしい顔をしていたな」

音もたてず静かにわたしの左隣に座り、鉢屋は瞳をゆうらりと揺らす。それから、頭巾を握り締めているわたしの手に視線を移し、ふ、と短く息をはいた。思い出したくない彼の名に心臓がどくりといやな音をあげる。かなしい顔の理由は、わたしが可哀相だから?彼が自分を責めているから?かなしい顔の理由を、今はわかりたくはなかった。あのこに会いたいと、思っていたりするのかな。

「…本は渡せたのか」

わたしの手に鉢屋の手が触れて、握り締めていた頭巾を奪われた。手があかくなるからやめろということらしい。隣で頭巾をきれいに畳んでみせた彼は、それをわたしの左の目尻にあて、何も言わず涙の跡を拭った。ひりひりと痛む頬にやわらかい指先が触れて気持ちが良い。彼の指先はあたたかくも冷たくもなく、やさしい体温をしていた。それから、あかいなとちいさくつぶやいて、やんわりと目を細める。鉢屋があんまり穏やかに微笑むから、わたしは目をそらしたくなるんだ。逃げてしまいたくなるんだ。

「…わたし、きっと雷蔵に嫌われた」

立てた膝に顔をうめる。知らず声がふるえた。とてもこわかった。次彼に会うときわたし、どんな顔をすればいいのかわからない。こわかった。すごくすごく、こわかった。

「雷蔵はおまえを嫌ったりしないよ」
「そんなのわからな…「なまえ」

風が変わった。息を、のむ。だって、声が。彼がわたしの名を呼ぶ声が、聞こえたから。どうして、ここにいるの?どうして、来てくれたの?雷蔵、どうして?振り返ればそこに、彼が立っていた。これが、鉢屋が言っていたかなしい顔なのだろうか。

「三郎、ごめん。少し、外してくれないか」
「…かまわないよ」
「話したいんだ、なまえと」

彼は確かに、わたしの前に立っていた。


あなたになら存分に傷つけられたいし陶器みたいに大事に触られたい

title にやり

▼続きます
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