かかとを鳴らすの続き

指先のささくれを見つめる。いつだったか斉藤くんが、わたしの人差し指の小さなささくれに気付いて、いたくならないうちに治さなきゃって絆創膏をはってくれたことがあった。これで大丈夫、そう言って笑った彼の顔をうまく思い出せない自分に、少しだけこわくなる。こんなに簡単に忘れていってしまうのがとても、こわかった。忘れたいのにこわいなんて、わたしの意気地無し。

あのときはきっと部屋にふたりきりで、絆創膏をはがす音がやけに大きく聞こえた。わたしより冷たい指先の体温に心臓がうるさかった。心配そうな目がうれしかった。テーブルには彼がつくってくれたミルクティーのはいったマグカップが二つが並んでいた。色違いのお揃いのマグカップは、斉藤くんがわたしにくれたものだった。斉藤くんはやさしかった。いつもいつも、ただやさしかった。

「斉藤さんがバイト休んだ理由、知らないか」

久々知から電話がきたのは、彼から電話がきた次の日の夕方のことだった。

「…え」
「おまえのところにいるんじゃないかと思ったんだけど、違ったんだな」
「どうして、わたしなの。またべつの女の子のところにいるんじゃない」

無意識にとげを含んだわたしの言い方に、久々知が受話器の向こうで押し黙ったのがわかった。空気がぴりりと重くなったのを感じる。わたしは一緒にいた友達にごめんと言って席を立った。大学のラウンジから出て中庭に出る。少し、肌寒い。

「何かあったんだろ。おまえ、変だよ」
「元々付き合ってないから」
「意地張るなんて、らしくない」
「意地なんて張ってない」

らしくないのは、久々知のほうだよ。沈黙を破るように、静かに息をするみたいに。

「…斉藤さん、前におれにおまえの話してくれたこと、あったよ」

久々知がお節介をやくなんて珍しいこともあるものだ。彼はわたしの付き合いの長い友人だけれど、話していないことにわざわざ干渉したりすることはなかったから。久々知がちいさく息をはく。聞きたいけれど、聞きたくない。

「いいこだって言ってた。すごく好きだって。でもうまくやれないって悩んでた、傷付けそうでこわいって。自分と一緒にいても楽しそうじゃないって、言ってたよ」

彼は一つひとつ思い出すように、たどるように話した。感情を押し殺したような静かな声だった。涙がでそうだった。久々知の言葉に一瞬で脳裏に斉藤くんの笑った顔が浮かぶ。うまく思い出せなかったのに。今までずっとぼやけて思い出せなかったのに。わたしがすきな、斉藤くんの笑った顔。どうして今日はそんなによく喋るの。どうしてわたしが信じたくなるようなことばかり、言うの。待って、やめて、言わないで。気持ちには蓋をしたはずよ。こわすようなこと、しないで。

「うそだ、そんなの、全部うそ」
「うそじゃない」

ベンチに腰掛け携帯を持ち直す。思わず髪にぐしゃりと触れた。バイト先が同じ二人が仲が良いのは知っていたけれど、斉藤くんが久々知にそんなことを言っていたなんて知らなかった。久々知のそんな声も今まで一度も聞いたことがなかった。こわかった、彼の言葉を信じ最終的には泣くことになる自分がみえるようで。

「斉藤さんはおまえのことちゃんと好きなんだよ。まだわかんないのか、」
「やめて、お願い、うそ言わないで」
「なまえ」
「わたしにどうしろっていうの」
「…もう勝手にしろ、ばか」

ブツリと電話が切れる。嫌でも頭に残る彼の本当かどうかもわからない言葉。わたし、知っている。久々知は嘘をつかない人だから。信じたいと思ってしまうことをもう、やめなくちゃいけないのに。どうしてわたしは信じたくなってしまうの。痛い目みるの、わかってるのに。もし久々知の言った言葉が本当なら、まるでわたしが頑固な分からず屋みたい。本当は今すぐ会いに行きたいよ、斉藤くんの顔、みたいよ。

久々知に電話を切られてから、胸がざわついたままアパートに戻りベッドに突っ伏す。頭のなかが、彼のことしか考えられない。久々知のせいだ、久々知があんなこと言うから。今までだって何週間も会えない日はあったでしょう。たった一日会っていないだけでしょう。なのにどうして、もうずっと会っていないような気になるの。

今彼に会いに行かなかったらもう、これからきっと彼に会うことはない。どうしてこんなに胸がざわつくの。わたし、決めたはずなのに。わたしから言い出したことなのに。もう口もきけなくなるなんていやだよ、ほんとは斉藤くんのためにもっとたくさん料理覚えたいよ、会えなくなるなんて、いやだよ。泣きそうになるのをぐっと堪える。気が付いたらわたしはアパートを飛び出していた。会いたい、ねえ、斉藤くん。


・・・・・



二人でこの公園を通ったことがあるんだよ、きっと彼は覚えてはいないだろうけれど。わたしはまだ鮮明に、はっきりと思い出せる。彼の笑った顔、その日わたしのつけまつげが片方取れちゃったこと、そんなの付けなくてもかわいいよって、彼が言ってくれたこと、クレープのイチゴを食べられちゃってわたしが怒ったこと、彼のごめんねって声。斉藤くんが覚えてること、このなかに一つでもあるのかな。着ているお気に入りのシフォンシャツの丸襟が風にふわりと揺れた。こんな肌寒い夜に一人でわたしを待つなんておかしいよ。斉藤くん、ばかだよ。いつも二人で座っていた小さなベンチに、金髪の頭がみえて、わたしはもうそれだけで、ねえ、胸がぎゅうっといたくなる。駆け寄って、抱きしめて、全部ぜんぶ許したくなってしまう。

二日前と同じチャコールグレーのシャツに見慣れたスキニーデニムパンツ姿の斉藤くんが、そこにいた。猫背だし、髪もぺっちゃんこ。いっつもきちんとしてるのに、こんな斉藤くん初めて見た。ばかじゃないの、帰っちゃえばいいのに一日待って来ない誰かをどうして待ったりするの。

「…なまえ、」

彼の前に立つ。わたしに気付いた彼は小さくわたしの名前をつぶやいた。風が吹いたらきっと聞こえないような、微かな声音だった。顔色、よくない。何も食べてないんでしょ。ばか、ばか、斉藤くんのばか。

「来てくれた…」

そうして何でもないことみたいにやわらかく微笑んで、ありがとうって、言う。どうしてわたしが、泣きそうになってるの。こんなのおかしいのに。ずるいのは斉藤くんのほうなのに。泣きたくなんか、ないのに。

「帰って」
「…え、」
「どうしてこんなことするの?」

きゅっと唇をかむ。駄目、声がふるえちゃう。ねえもうやめようよ、わたし、泣くのもういやだよ。




「なまえのことが、すきなんだ」

悩ましげな眉が、うすく開かれたままの唇が、まっすぐわたしを見るきれいな目の色が、全部ぜんぶせつなくて、すきという響きに頬をころりと涙がすべっていった。くるしかった。すんなり受け入れてしまうわたしが、くるしい。胸がつぶれそう。どうしよう、わたし。涙がとまらない。

今まで彼に、すきだと、そう言われたことは一度もなかった。斉藤くんが真面目なかおしてるのも、あんまり見たことない。まっすぐ届いた声は、わたしがずっとずっと欲しかった言葉だった。足がすくむ。逃げ出したい。けれど、ここにいたい。いやだ、信じたくない。でも、でも、

「っ、!」
「ちゃんと、聞いて」

座ったままの彼に、手首をがしっとつよく掴まれる。びくりと揺れた身体に一瞬傷付いたような表情を見せたけれど、それはすぐに消えて、彼はわたしとまっすぐ目を合わせた。そらせなかった。どうしても、そらせなかった。

「…セフレって言われてすごくショックだったんだ。おれは…ずっと、ずっとね」

こくり、彼の喉がちいさく動く。

「なまえと、付き合ってるつもりだったから」

きゅっと強くなる手首を掴む力。せつなげな目の奥に、泣いているわたしがゆらゆらと映っていた。彼の言葉に、頭がかっとなる。枷が外れる。溢れる。

「…うそ、つかないで」
「なまえ」
「じゃあどうしてわたしのこと何日も放っておくの?なんでずっとそばにいてくれないの?なんでわたしじゃないひとのところ行っちゃうの?嘘ばっかりだよ…!斉藤くんはいつも嘘ばっかり!」

ああ、駄目だ。わたし、ずっと、我慢してきたのに。

「…なまえ、」
「わたしのことなんて、ちっとも好きじゃないくせに!」
「……」
「わたしは、斉藤くんのことが好きだから、…だから、」

涙声が、みっともない。泣き顔も、きっとすっごくひどい。言いたいことも言えなくて、聞きたいことも聞けなくて、わたしずっと我慢してた。行かないでって、言えなかった。腕をつながれたまましゃがみ込む。膝に顔をうめて、泣いた。

「今更、そんなこと言わないでよ…、」

わたし、斉藤くんのことが好きだから、いっしょにいたかったの。それだけだったの。彼女になりたいって、わたしが何度思ったか斉藤くんは知らないでしょう。

「つ、付き合ってるなんて言わないで」

斉藤くんはわたしのこと、そういうふうに思ってくれてた?一度でもそういうふうに思ったこと、あった?わたしばっかりで、きっと斉藤くんは違うことを考えていたんでしょ。都合の良いことしか考えてなかったんでしょ。

「ずるいよう…、さいとう、く………わあっ」

腕を、ひかれる。座っていたはずの彼は、わたしの前に両膝をついて、それから二本の腕がぎゅうとわたしを抱きしめた。しゃがんでいたわたしはその場にへたりと座り込んでしまう。伝わる体温が、せつない。

「すきだよ」

ぶつけるみたいな切羽詰まった声が、一層わたしの胸をくるしくさせた。やわらかな猫っ毛が、ふわりふわりと頬に触れてくすぐったい。ふるえる声に彼もまた、泣いているのだと知る。斉藤くん、泣いてるの?わたしの肩元でぐずぐずと鼻をならした彼は、いやいやとちいさく首を横に振った。

「ずるいとかうそとか、言わないで…」
「いうよ、ぜんぶ、ほんとのこと、だも」
「ちがう、おれはなまえのこと、ほんとにすきだ」
「もうやだ、あほ、う、うそつき」
「すきだよ、ほんとうだよ。…お願い、もう言わないで、ほんとうにうそじゃないんだよ」

二人とも時々ひっくり返ってしまうような涙声で、夜の真っ暗になってしまった公園の地べたで抱き合って、わたし達きっと傍から見たら物凄くおかしい。だけどわたし達、必死なの。おかしくっても、涙がとまらなくっても、格好悪くても、伝えることに必死なの。

「男のくせに、泣くな、っばか」
「だってなまえが嘘だって言うから…」
「でも、わたしの他に女の子、いたでしょう」

彼はわたしの言葉にそっと腕を解いて体を離すと、唇をきゅっと結んで微かに目を伏せた。わたし、知ってたよ。知らない振りしてたの。斉藤くんの携帯にかかってくる電話も、何日も連絡が取れないのにも、わたし何にも言わなかったでしょ。

「正直に言うから、聞いて欲しい」
「うん」
「なまえの他に会ってる女の子が…あのときは二人いた」
「…うん」
「本当に、ごめんね」

斉藤くんはちゃんと謝ってる。本当にごめんねって思ってる。わたしはそれをきちんと受け止めて、許してあげたらそれでいいのに。わたし彼が他の女の子と会ってるって知ってたけど、わかってたけど。彼が直接口にするのがつらくって、少し引き掛かっていた涙がぼろぼろ溢れた。斉藤くんも一生懸命わたしの涙を指で拭いながら、つらくて仕方ないってかおするの。ごめんねって、かおするの。

「す、好かれてる自信がなくて」

目の縁に涙をたくさん溜めたまま、彼が顔をせつなそうに歪ませた。悲しくてたまらないって、表情。

「……」
「おれ、なまえはおれのこと本当に好きなのかなって、いつも思ってた」
「そんな、」
「自分を好きだって言ってくれる誰かが欲しくて、自分でもこんなの違うってわかってたよ。なまえはおれにやさしかったけど、いつも気を遣われてるような気がしてたんだ…」
「……」
「目を見て話して欲しかったんだよ」

いつの間にか彼の頬っぺたも涙でぐっしょりぬれていて、泣いてる斉藤くんのかおがきれいだなって、ちょっとだけ思ってしまった。長いまつげが涙でひかってとてもきれいだ。わたし、しんじてもいいかな。ちゃんと彼を、好きになってもいいかな。

「でっ、でも、セックスはしてないよ。セックスは、なまえだけ」

妙に焦って斉藤くんが顔の前で両手をぶんぶん振るから、なんだかおかしくって、びしょびしょの顔のままくすりと笑った。

「さいとうくん、セックスってそんなに大切?」
「あ…ごめん。でも、本当なんだよ、うそ、ついてないから」

変に念を押されて、少し嘘つきって言い過ぎたかなって反省する。うん、わかった。って言ったら、斉藤くんは安心したように眉を下げた。目にかかる長い前髪をそっと掻き分けてあげる。涙のせいで微かにしっとりとしていた。髪を耳にかけて、そのまま首の後ろに手をまわす。そっと引き寄せて、肩におでこをのせるように。やっぱり斉藤くんはぐずぐずと鼻をならした。

「わたしの他にも女の子がいるって思ったら、ぜんぶがつらかったんだよ」
「…うん」
「だから…先回りして、傷付かないようにしてた」
「うん、…なんとなくわかってたよ」
「そうだよね、わたしもずるかったの。…ごめんね」

背中に腕をまわしわたしからぎゅうとおおきな身体を抱きしめる。真っ暗で、もうあんまりよく見えないや。

「もう、彼女って思ってもいい?」
「うん…じゃあ、言うね」
「え?」
「だいすき、斉藤くん」

かさついている唇に、そっとキスをする。引き寄せられるみたいに。目をまんまるくした彼のはれぼったい瞼にもちゅうって唇をくっつけたら、またわたしの目の端っこからつうっと涙がこぼれた。知ってる?斉藤くん。自分からキスしたの、これが初めてよ。

「手、つめたいね」
「うん」
「風邪ひいちゃうよ、わたし、看病なんかしてあげないから…っ」
「うん」
「さいとう…く…」
「…うん、なまえ」

きっとわたし達は少し間違ってしまっただけだ。少し遠回りをしてしまっただけだ。わたしは彼にこれまで好きと言われたことはなかったけれど、それがいつも悲しかったけれど、それはわたしだって同じだってことに気が付くのが遅かったね。伝えるってことが、足りなかったね。

「なまえ、…ありがとう」

こんなに涙をつかってわかり合ったこと、忘れないでね。




Mind,this is just between you and me.
いいね、ここだけの話だよ


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