「今?うん、おれの部屋。やだな、嘘じゃないよ」
「夜は飲み会なんだ…うん、ごめんね、最近会えなくて」
「…一人だよ」


わかっているつもりだったのに、やっぱりまだ駄目みたい。ドアの向こう側で一体誰と話しているの。ベッドの脇に落ちている下着が目に入って、シーツにくるまったままそれに手を伸ばす。拙い手つきで手繰り寄せ身につけた。心が空っぽで何にも考えられないや。斉藤くんの、うそつき。ここはわたしの部屋で、さっきまでわたしの隣で髪を撫でてくれていたくせに。わたしが寝たふりをしていたのに気付いてなかったなんて、そんなことはないよね。部屋から出る際、シャツを着る斉藤くんをベッドの中からただ見つめていた。不自然な傷に、心が揺れる。背中、ちょっとあかくなってる。あれはわたしのせいかなあ。それともわたしじゃなくって、他の誰かがつけた傷かなあ。あたたかい胸に鼻先をくっつけて眠るわたしに、ごめんねとつぶやいてベッドから出た彼が部屋を出て数分。温もりももう、消えかかっていた。

「おはよう、起きてたんだね」

携帯を片手にジーンズとシャツ姿の彼が部屋に入ってくる。綺麗好きの彼が昨日と同じ服装をしているなんてなんだか可笑しくて、少し笑った。

「うん。おはよう、斉藤くん」
「お腹空いたでしょう。何かつくるよ」
「いいの?じゃあ…スープがいい!野菜スープが食べたいな」
「任せて」

そう言って振り返り、彼はわたしにやわらかく微笑んでみせる。わたしも彼に微笑みを返す。疲れてる顔してるね、目の下の隈に彼が気が付くのはいつだろう。キッチンに向かう斉藤くんの背中がなんだかとっても薄っぺらくって頼りなく見えた。パタリとドアが閉まる。わたしは枕に逆戻りする。笑う彼の表情を、頭の隅っこに押しやろうとしてやめた。そんなのきっと、わたしにできるわけがない。

「さいとうくん」

ぽつり、唇から思わずこぼれた彼の名があんまりせつなくて、シーツに顔をうずめてこっそり泣いた。声もふるえちゃって、ちょっと格好悪い。けれどわたしのこんな声、どうせ彼には聞こえない、決して届きはしない。いらないやさしさばっかり斉藤くんはわたしにくれて、わたしが本当に欲しいやさしさはいつだってくれないね。斉藤くんのそういうところが大嫌い。一人泣くわたしの涙を拭ってくれる人なんてどこにも居ない。本当はずっと斉藤くんと一緒にいられたら、わたしを見てくれたら。わたしが泣いたことも、わたしの気持ちも知らなくていいから、だから。気丈な振りに甘えている彼が憎らしい、わたしはそんなにつよくない。会いたいって我が儘、言ってみたい。


・・・・・



「ね、斉藤くん。今日何時頃帰ってくる?はやく帰ってくるならわたし、夜ご飯…」
「…あ、なまえ、今日はおれ」

申し訳なさそうに眉を下げる。言いづらそうに口許をきゅっと結ぶ。ごめんねって顔、してる。わたしを振り返りそんなそぶりをしてみせる彼も、今は全て嘘にしかみえない。斉藤くんのつくった朝ご飯はいつもと何も変わらず美味しかったし、昨日髪の色を変えたのにもちゃんと気付いてくれた。かわいいよって、言ってくれた。すごくうれしかったのに、どうして心の奥から素直に喜べないのだろう。心に引っ掛かって取れないものは何だろう。わたしは斉藤くんに、どうして欲しいんだろう。

「…約束が、あるんだ」
「うん」
「今日は帰って来れないかもしれない」
「うん」
「なまえ、でもね」
「じゃあわたし着替えてくるよ。先にシャワー使っていいから」

彼の言葉を遮るようにキッチンを後にする。多いに予想できていた答えのはずでしょう、だから彼の言葉に傷付くのはおかしい。わたしはただ斉藤くんに、そばにいて欲しいだけだ。こんなふうにわたしが自分勝手だから、斉藤くんの表情も、声の響きが寂しいのにも、何にも気づかなかった。自分のことばかりで何にも気づかなかった。斉藤くんのほうを見ようともしないわたしに、彼がどれ程傷付いていたかなんて。


・・・・・



「ただいま」
「お帰り、斉藤くん」
「これ何のにおい?チーズのにおいがする…グラタンかな?」
「正解っ!」

約束があると出て行った彼がわたしの部屋に帰って来たのは四日後で、電話こそかけられなかったけれど、わたしは毎晩二人分の夕食をつくって彼を待っていた。何食わぬ顔でここに帰ってくる彼に、寂しいとも悲しいとも言えなくて、ただ黙って斉藤くんを受け入れる。いつだって何も言わずに、聞きたいことも聞けずに、愚痴も言えないで、ただいまと言う彼にお帰りと言う。美味しそうだねって斉藤くんがにっこり笑うから、わたしもつられて本当?って笑った。斉藤くんがどこに行っていたかなんて聞かないよ。彼の笑顔がいつも通りで安心する。二人でご飯食べられるのなんて何日ぶりだろうって、そっちのうれしさのほうが勝ってしまう。

「ね、はやく食べよう」

そう言ってわたしのエプロンの端っこを引っ張った彼は、本当にこどもみたいにあどけない顔をしていた。前にグラタンが好きって言っていたの、わたし覚えてたのよ。思えば彼が好きな物はみんな似ている気がする。カルボナーラとか、クリーム系が好きなのかな。斉藤くんが好きな物を思い浮かべて、どうしてわたしがうれしくなるんだろう。けれどもう意味がない。グラタンの作り方も、忘れてしまいたい。

「じゃあコップにお水わけてくれる?」
「わかった」

隣にいる斉藤くんから、彼の匂いが香って、どこかで安心している自分が嫌だった。食べたくって仕方ないって顔してるね、素直な斉藤くんはかわいくってだいすき。スプーンを渡すと、テーブルに丁寧に並べる目の前の彼が、どうしようもなくいとしかった。

「斉藤くん、美味しい?」
「うん!なまえは料理上手だね、いつも言ってるけど」
「あはは、いつも言われてる」

どうして帰って来てくれるの?わたしが何も言わずにこうして帰りを待つことを知っているから?料理ができるから?以前はこんなこと考えたりしなかった。斉藤くんがわたしのところに来てくれるだけで、それだけで良かった。我が儘になってく自分をとめられないよ、寂しいのも我慢できないよ。向かい側の彼は普段と変わらず、わたしが作ったグラタンを頬を綻ばせながら美味しそうに食べてくれる。最後に斉藤くんの、そういう表情が見れて良かった。スプーンも持たずに彼を見つめる。頬杖をついて瞼に焼き付ける。こんな顔してわたしのグラタンを食べてくれるのはきっと、斉藤くんしかいないね。

「斉藤くん」

わたしと視線を合わせて、斉藤くんはスプーンを持つ手を止めた。同時に小首を傾げてみせる。

「なあに?」

小さくを息をすって、はく。彼の前髪がさらりと揺れた。とてもきれい。くちを開く。用意していた言葉を、紡ぐため。

「もう、やめよう」

わたしが言葉を落としてから、しばらく沈黙が流れた。わたしはうつむかなかった。彼と目を合わせ、泣かなかった。見開かれた目にわたしがうつる。びっくりしているの?本当はずっと、わかっていたんじゃないの。何か言いたげに薄く開かれた唇が、先程のわたしと同じように小さく息をすった。

「…どう、したの。いきなり」
「こうやって会うの、今日で最後にしたいの」
「……」
「食べ終わったら駅まで送るね」
「なまえ、ちょっと」
「セフレでもいいって、思ってたけど」

斉藤くんの声が微かにふるえている。わたしの声も、きっと情けない。グラタンは冷めてしまった。胸がくるしい。

「駄目になっちゃった…斉藤くんの、彼女にちゃんと、なりたいの」
「斉藤くんのこと、すきなの」
「ずっと思ってた。斉藤くんが、ほかのおんなのひとのところ行くの、いや…。電話も、メールも、いや。」
「わたし、付き合った人とは、一緒にどこかに行ったり、買い物したり、いろんなことしたい」
「斉藤くんとじゃ、できない」

一通り言い終わった後、泣かないと決めていたのに、目のふちにいっぱいに溜まっていた涙がぼろっとこぼれた。声がふるえちゃったのは涙のせいだなあ。落ちたしずくがテーブルに小さな水溜まりをいくつもつくっていく。斉藤くんも、今にも泣き出しそうな顔をしていた。どうしてそんな顔するの、今更遅いよ、信じられないよ。薄い唇がひらく。わたしの名前を、呼ぶ。涙の膜が、みえたような気がした。

「なまえ、」

行かないで、斉藤くん。


・・・・・



毎日携帯の着信履歴に、斉藤くんの名前が残っていく。消しても消してもまたすぐに現れる彼の名を、着信拒否する勇気も持ち合わせていなくて、わたしは途方に暮れた。電話をかけてくる彼の意図がわからない。話すことなんて何もないはずなのに。

「…もしもし」
「あ、なまえ、!」
「…うん、」
「ありがとう…出てくれて」
「もう出ない。電話しないでって言うために出たの」
「なまえ、そんなこと言わないで。おれのはなし、聞いてよ」
「…いやだ、聞きたくない」


もう切るよ、わたしがそう言いかけたとき、斉藤くんが携帯の向こうでおおきく息を吸った。彼がどんな顔をしているのかもうわからない。隣に女の子がいるんじゃないかってそう思う。疑うことをやめられない自分がとてもいや。何を思っているのかも検討がつかない。だから、ずっといやだったのに。斉藤くんのそばにいるのがとてもしあわせで、いやだったのに。

「駅前の、公園に、来て」
「…な、に」
「おれ、待ってるから。なまえが来るまでずっと待ってる」
「そんなのずるいよ、わたし行けない。やめて」
「ううん、待ってる。だから、来て」
「斉藤くん」
「じゃあ、それだけ。待ってるよ」
「斉藤くん!」
「またね」


プツリと途絶えた彼の声、斉藤くんから電話を切るなんて初めてのこと。斉藤くんはいつも、わたしが電話を切るのを待っていてくれたから。待つってどうして、清々してるんじゃないの。切り出したのがわたしからで助かったでしょう、言わなくちゃいけなかったことを、言わずに済んだんだから。斉藤くんのばか、ばか、ばか。行けるわけないでしょう、自分勝手にも程がある。わたしどんどん可愛くなくなってくよ。どんな思いでわたしがあんなことを言ったか、斉藤くんは何にもわかってない。わたしは携帯を握りしめ、少し泣いた。いまの斉藤くんが笑っているわけないのに、彼の笑った顔しか、わたし思い出せないよ。

斉藤くんと話がしたい。涙がとまらない。斉藤くんにさわりたい。やわらかい猫っ気、ふれたい。あのやさしくてまあるい声、聞きたい。でももう、斉藤くんには会えない。会いには行けない。


かかとを鳴らす

(あなたにふれて、確かめる)



△続きます
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