帰れない僕らのラストワルツの続き

「一人きりで大丈夫か」
「うん、…一緒に買いに行ってくれてありがとう」
「私が付いて行くと言ったんだ、礼はいらないさ」
「…鉢屋」
「うん?」
「鉢屋がああ言ってくれなかったら、わたしはただ独りぼっちで泣いてただけだったよ」
「……」
「だからありがとう、」

小さく息をはいた彼の頬が、ほんの少しだけやさしく緩んだ。何も図書室の前まで付いて来てくれなくとも良かったのに、そう鉢屋に言えば、彼は心配なんだと表情の一つも変えずに言ってのけたので、わたしは今度こそ彼の底知れぬやさしさに胸を痛めるしかなかった。

引き戸に手をかける。かたり、古い木の擦れる音。きっと雷蔵はわたし達が引き戸の向こうにいることに気付いているだろう。鉢屋はわたしの頭に右手をおいて、目を閉じ祈るように唇を寄せた。かなしい思いをしませんように、と、彼の唇が動く。わたしには知られぬようにしたつもりだったのだろうか。声こそは聞こえなかったけれど、胸の奥が締め付けられるようだった。貴方の真っ直ぐなやさしさに胸が痛い。思わず無防備な鉢屋の左手を握る。わたしのこの気持ちが、ありがとうが貴方に伝わりますように。

驚いた表情を、していた。わたしの心はやけに落ち着いていて、そんな彼に心で何度もありがとうを繰り返した。一度きゅうっと握って、ゆっくりと手を離す。それからすぐに、鉢屋は穏やかに微笑んでわたしに背を向ける。わたしの手には、いつか雷蔵が読みたいと欲しがっていた一冊の本。




「いつ入ってくるのかと思っていたよ」
「気付いてたの?」
「そりゃあね、」
「ごめんね、うるさかった…かな」
「あ、いや、そんなつもりで言ったんじゃないんだ」

鉢屋と同じように、雷蔵も穏やかな微笑みを携えていた。図書カードを数えていたらしい、机の上には図書カードが散乱していた。本を借りにきたの?そう問われて、今日は違うの、と曖昧に笑う。そっと彼の隣まで歩み寄った。

「じゃあ、昨日の本の続きを読みにきたのかな」

そう言ってふうわりと微笑んでみせた彼のその表情を、人知れず瞼の裏に焼き付ける。本を渡したらどんな顔をするだろう、喜んでくれるかな、びっくりするかな。ありがとうと、笑ってくれるだろうか。そわそわと落ち着かない胸を抑え、正座をする雷蔵の隣に腰を下ろした。うん?と首を傾げる彼の向こう側に、一冊の…――




は、と小さく息をのむ。気付かれないように、気付かれないように。心の、身体の、何かが破れて、微かな壊れる音がした。鉢屋のやさしさで縫い留められていた気持ちの枷が、外れる。

「それ、その本…」
「え、…ああ、これかい?」

視線を、わたしから机の端に置かれたそれに移す。彼の瞳がやさしく揺れた。同時に、脳裏に窓際で本を読むあのこがちらついた。どうしてその本が、ここに?唇がふるえてうまく言葉を紡げない。どこからどう見ても真新しいその本の表紙を、彼は人差し指でゆっくりと撫でた。たどるように、確かめるように、ゆっくりと。そこから溢れる彼の思いが、愛おしいという気持ちが嫌というほど伝わってわたしの小さな胸はきりきりと痛んだ。いたたまれなくなり、爪先に視線を落とす。彼の仕種に全てを察する自分が恨めしい。知らず唇を噛み締めていた。恨めしいほど、胸がくるしかった。

咄嗟に背中に本を隠す。雷蔵は変わらずに本を見つめたまま、大切な宝物を扱うように、あのことのしあわせな出来事をわたしに話す。

「あの、なまえは知らないかな、いつも図書室に本を読みにくる女の子がいるんだけど」
「そのこと、一緒に町に行くことになって」
「偶然見付けたんだよ。手に入って良かった」

きれいに微笑む彼の表情が、ほんとうにやさしかったから。頭の中がただまっしろになって、返す言葉を見付けられない自分自身に戸惑った。何と、言えばいいのだろう。良かったね、それとも、何か違う言葉をかければいいの。この本はどうすればいいの、貴方にあげたかったこの本は、わたしはどうすればいいの?ねえいつの間にそんなに仲良くなっちゃったの、二人で何を話したの?やっぱり雷蔵は、あのこのことが好きなの?

「……なまえ、?」



名を呼ばれ咄嗟に顔を上げれば、ぽたりと雫の落ちる音がした。駄目だ――と思ったときにはもう既に遅かった。後から後から、涙がとまらない。力が入らなくなった右手からするりと本が滑り落ちる。どさり、鈍い音がした。とめなくちゃと思うのに、雷蔵の前でこんな、こんなふうに泣いちゃ駄目なのに。端正な彼の指先が、ゆっくりと本を拾い上げる。彼の微笑みが消える。いやだ、やめて、雷蔵、やめて。拾わないで。立ち尽くしたままのわたしの涙で滲む視界の先に、歪んだ彼の表情がみえた。

「なまえ…」

わたしはただ、雷蔵の喜ぶかおがみたかっただけなんだよ。





(見限った神様はわたしの涙を溢れさせたのね)


▼続きます
×