※現代

「そんな看板、どこにもない」
「いいや、あるはずだよ。もっとよく探してごらん」
「ないってば、」
「…困ったな、他に何か目印になるようなものはないの?」


私を宥めるような声音に、携帯の向こう側でやわらかく微笑んでいるであろう彼の表情を想像して、思わず眉をしかめた。

シフォンケーキがうまく焼けたから、あまいお菓子が好きな彼に食べて欲しいと思った。生クリームは彼の部屋に着いてから一緒に作ればいい。焼きたてのシフォンケーキを箱に入れて、携帯だけを持ってそのまま家を出た。外気の生ぬるい風が肌の上をすべっていくのも気にならないほど、あの時の私は浮足立っていたのに。やっぱり鉢屋に迎えに来てもらえばよかったとひどく後悔をした。うろ覚えの彼のアパートまでの道のりを進んでいくうちに、私はいつの間にか道に迷ってしまったのだ。いつも鉢屋のアパートに行く際は彼の車に乗せてもらっていたのを思い出す。私、彼氏の家にも一人で行くことができないのか。着く気配のない道のりに少し悲しくなって、けれど意地でもたどり着いてやろうと必死に暗中模索して、やっぱり諦めて彼に電話をかけたのがつい15分前。鉢屋は驚いていたけれど、すぐにそれはうれしそうな声音に変わった。先ほどから何度も迎えに来てと頼んでいるのに、彼は一向に首を縦に振ってくれない。

「足、いたい」
「サンダルで来たんだろう」
「だって、こんなに時間かかるなんて思ってなかったから」
「そんなに痛いの?」
「小指、あかくなっちゃった…」


私が自ら鉢屋の家に行こうと思ったことが大層うれしかったらしく、ここまで来たのなら最後まで自分の足でたどり着いて欲しい、というのが彼の言い分。確かに思い付きを実行に移すなんてこと、普段の私なら滅多にしないけれど、だって仕方ないじゃない。私が作ったシフォンケーキを食べて、やさしく笑ってくれた鉢屋が頭に浮かんだんだもん。

彼の言い分はわかる。それは私もそう思うけれど、道がわからないのだからどうしようもないのだ。これじゃ自分のアパートにももう戻れない。周りは見覚えの無い景色ばかりですっかり私は心細くなってしまった。携帯の向こうの彼に、はやくあいたい。

「鉢屋」
「うん?」
「…いま、どこにいるの?」
「家にいるよ」
「……」
「なまえ?」


シフォンケーキはもうきっと冷めてしまった。あたたかいうちに、食べて欲しかったのに。

「…なまえ、そばに大きな向日葵が咲いていないか、探してごらん」
「ひまわ、り」
「そう、向日葵」


何故か先ほどよりずっとやさしく、かつ穏やかになった彼の声音を不思議に思いつつ、辺りを見回す。薄暗い視界の中、確かにとらえることのできたそれは、暗闇でもわかるほどの映える黄色をしていた。見付けた途端にほっと安堵する。これが、鉢屋のいう向日葵だ。

「…あった」
「じゃあその横を通り過ぎて、まっすぐ進んで、そうしたら…」
「鉢屋のアパート?」
「まさか、そこまで行ったらまた教えてあげる」


鉢屋の言う通り、向日葵を横目にまっすぐ歩く。少し広い通りに出た。風が吹く。夕方の風とは違う、さらさらとした心地好い風。気持ちいいな、そう思い、思わず携帯の向こうの彼の名前を呼んだ。

「鉢屋」



ガードレールに軽く腰掛けて携帯を耳に当てている鉢屋が、そこにいた。彼はまっすぐにこちらを見ていて、その表情があんまりやさしかったから、私は思わずシフォンケーキの箱を持っていることも足が痛むのも忘れて、

「なまえ、」

彼にはやくさわりたくて、ただ走った。鉢屋が私の名前を呼ぶ。腰を上げて携帯を閉じた彼はジーンズのポケットにそれをしまい込み、両腕をおおきくひろげた。それから、駆けてきた私をぎゅうっと抱きしめた。

「遅い」
「だ、って、迷…っ」
「…うん」
「鉢屋、鉢屋…」
「うん」

こわかったのとか、不安だったのとか、そんな気持ち全部、彼の腕に触れただけでどこかへ飛んでいってしまった。どこにいるのと聞いた時に鉢屋が言った家にいるよって言葉、あれは嘘だったんだね。ずっと探してくれてたんだね。今まで電話越しにきいていたからなのか、耳元できこえる彼の声が本当にうれしくて、なんだか泣きたくなる。あやすように背中をさすってくれる彼の手のあたたかさにも、どうしようもなくうれしくなった。人通りの少ない夜の歩道で抱き合ったまま、鉢屋は笑った。

「箱、つぶれてる」
「…え、え!あっ」

手に持っていた袋の中の箱は、抱き着いた際の衝撃のせいなのか所々つぶれてしまってる。中身もきっと、ケーキの形をしているかどうかあやしい。私がうつむいていると、くしゃりと歪んだケーキの箱を、彼はそっと袋から取り出した。壊れ物を扱うように、そっと。

「食べていい?」

彼は変わらず穏やかな表情をしている。だめ、と私が答える前に、鉢屋はケーキの箱を開けた。案の定形の崩れたシフォンケーキの一欠片を、しなやかな指先がすくう。私は黙って彼を見つめた。ケーキを口元に持っていく動作にまで見惚れてしまう。こくりと上下した喉が色っぽくて、私は慌てて目をそらした。

「おいしいよ」
「!、ほんと?」
「うん、本当。なまえ、くち開けて」
「わ、わたしはいい、んう…っ」

いきなり口のなかに詰め込まれたシフォンケーキ。見上げた鉢屋は眉を下げて微笑んでいた。彼のシャツの裾をぎゅっと握る。唇の端についていた欠片を舐め取られて、そのまま強引にキスをされた。彼の匂いに体がとろけそう。

ってあげよう
×