※現代

「わあ、この映画観たかったの」
「チケットとったから今度二人で行こう、いつなら大丈夫?」
「いつでも大丈夫!」
「今週の日曜は空いてる?」
「うん」
「じゃあ、映画館の近くの喫茶店で待ってるから」
「うんっ」


数日前に彼と交わした言葉を思い出していた。確かに映画の約束したよなあ、なんて、彼の笑った顔を思い浮かべながら。うん、ちゃんとあの時、約束した。はあ、とはいた息はふわりと白く淡く空気に溶けてやがて見えなくなった。もう一度息をはいてみる。それから、彼が来るであろう喫茶店の隣の曲がり角に目をやった。やっぱり、いない。喫茶店に入っても彼はまだ来ていないようで、なんだかあたたかいミルクティーを飲みながら彼を待つ気にもなれなくて、かれこれ二時間、こうして喫茶店の入り口のそばに立っているのだけれど。一向に彼は姿を見せない。何か、あったのだろうか。携帯を見てもメールも着信もなし。綾部が約束の時間に遅れたことなんて今まで一度もないのに。

寒いな、こんなことならマフラー巻いてくればよかったな。指先の感覚ももう随分前からない。はああ、と両手に息を吹き掛けてもちっともあたたかくならない。手袋もしてくればよかった。なんで今日に限ってコートしか着てこなかったんだろ。馬鹿だな、わたし。二時間も何してんのかなあ、いい加減寒いよ、綾部。もしかしたら綾部、約束したこと忘れちゃってるのかもしれない。そう思ったら、なんだか胸の辺りがじくじくして目頭がぼうっと熱くなった。あれ、あれ?

「わたし、泣いて、…」

涙が頬をすべる感覚。視界がしろくぼやけて目の前を通る町の人達がゆらゆらと揺れた。どうして泣いてるの、わたし。時間になっても綾部が来ないから?忘れてるのかもって、思ったから?そんなことで泣いてしまうほど私は脆かったの。どうしよう、泣くなんて嫌だ。こんな小さなことで泣くなんて、綾部が来ないから泣くなんて、そんなの嫌だ。ぐしゃぐしゃと乱暴に目元を拭う。と、その瞬間にふわりと彼の香水の匂いが鼻をかすめた。

「…なまえ、」
「あや、べ」
「ごめんなさい。あの、寝坊して」

名前を呼ばれて、振り返る。あ、ちゃんと来てくれた。よかった、忘れてなかったんだ。綾部だ、綾部が来てくれた。申し訳なさそうに眉を下げて唇を噛む綾部は、かじかんだ私の両手を自分のそれで包んで一生懸命にこすり合わせる。顔を上げずに、私のほうを見ずに、ただひたすらに手をこすり合わせ続けた。なかなかあたたかくならない私の手に綾部は泣きそうな顔をする。ごめん、…ごめんね。そうつぶやいた彼の謝罪はすぐに街の喧騒に掻き消されてしまう程小さくて。

「綾部」
「うん、?」
「謝んなくっていいから」

彼の手を今度は私が両手で包み込む。私よりも一回りも二回りも大きな綾部の手をあたためるのには私の両手じゃきっと足りないけれど、でも。いくらこすっても私の手があたたかくならなかったのは、同じくらい綾部の手が冷たかったからだよ。

「事故とか、そういうんじゃなくてよかった。ね、はやく行こ」
「怒らないの」
「んん?」
「だって、なまえをこんなに寒いなかで何時間も待たせてしまったし、それに」
「…それに?」
「寝坊、したんだよ」

そう言って、また泣きそうな顔をする。されるがままになっていた綾部の手がぎゅうと私の手を握った。唇を噛むの、もうやめて。よれよれのシャツがうれしい。上下する肩も、まだ整わない呼吸も、うっすらと顔があかいのも。きっと走ってきてくれたんだなあ、思わず頬を綻ばせれば彼は未だ不安そうな表情をしていたけれど、そろそろと顔を上げて私と目を合わせてくれた。

「寝坊くらいで綾部のこときらいにならないよ」
「…ほんとうに?」
「うん、本当」

当たり前だよ、って笑ったら目元にひんやりとしたものが触れた。あんまり冷たいからびくりと肩が揺れる。残っていた涙を指先で拭われたのだと、気付いた。そっか、綾部。私が泣いたの、わかってたんだ。

「よかった」

綺麗にふわりと微笑む彼をどうして許さないことがあろうか。大きな瞳をやさしく細めて本当にうれしいってかおするの、その目に私が映っているんだと思うとどうしようもない気持ちになるんだよ、ねえ、





(手を握るってきっとこういうこと)
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