ハロー、プリズムの続き


「あれ、花井の」

うとうと。閉じかけていたわたしの瞼をしっかりと覚醒させた声は聞き覚えのあるものだった。誰か、いるのかな?顔を上げれば、ドアの付近に誰かが立っているのが見える。半分眠りの世界に堕ちかけていたせいでぼやけた視界と、薄暗い教室のせいで顔まではわからない。目をこらすと、きれいな金髪が揺れるのが目に入った。わあ、きらきらしてる。でも今、あれ?花井って聞こえた気がしたのは、気のせいかな。何度か見掛けたことのある金髪の背の高いその人は、私と目が合うと人の良い笑顔を浮かべながらこちらに向かって歩いてくる。確か、応援団の団長さんの。花井から話さえは聞いたことがあるものの、名前やクラスは知らない。思わず首を傾げるとその人は困ったように笑った。

「あっそか、ごめんな。おれ、浜田っての。野球部の応援団やってんだけど」
「あ、えと」
「花井の彼女…だよね?」
「!」

彼女、確かなその響きにかああと頬に熱が集まるのを感じる。そっか、わたし、花井の彼女でいいんだ。胸の奥がじんわり温かくなるような、形容し難い感覚。わたしが花井の彼女なんだ。

「…あの、浜田さんのこと、知ってます。花井から聞いたことあるから」
「あ、そうなの?」
「すっごく良い人だって、花井が」
「えっ!いやいや、おれなんか全然!それ言うなら花井のがかなり良いやつだよ!」

顔をあかくしているのが、わかる。開きっぱなしの窓から入り込んだ風がカーテンをふわりと揺らした。花井が話していた通り浜田さんは良いひとなんだなあって、そう思う。あんまり必死に否定する彼にわたしがくすりと笑えば、浜田さんは安堵したようにやんわりと笑った。花井は良いやつ、なんだ。そっか、うん、そうだよね。あはは、なんて渇いた声で笑ってみる。どうしてわたしが照れているの、ばか。いくらわたしが花井の彼女だからってこれは調子に乗りすぎ、だと思う。だけど、でもね。やっぱり、花井のことを褒められてうれしくなってしまうわたしを、うれしいと思ってしまうのは、駄目なことかなあ。

「あ、のさ、花井のこと待ってるとか?」
「えと、野球部の練習が終わるまで、」
「じゃあさ、おれ…ここにいていいかな。話し相手になるよ」
「えっ、いいんですか」
「あはは、おれ暇だしなあ」

いろいろなことを、話した。部活中の花井のこと、花井の好きなおにぎりの具、得意な球、ジャングル鬼の途中にジャングルジムから落ちそうになったこと。たくさんたくさん、花井のことを聞いた。それから、こんなに面と向かって花井に聞けないことや、ずっと気になっていたことがあったことに驚く。心のどこかで花井に遠慮していた部分があったのかもしれないな。初めて話すのに、浜田さんは気さくに話しかけてくれて、始めのほうこそ緊張していたものの少し時間が経てば会話のぎこちなさはすぐになくなった。みょうじさんは花井のことほんとに好きなんだね、と感心したように言われて頬が熱くなった。うれしい気持ちはんぶん、恥ずかしい気持ちはんぶん。花井のことがたくさん知ることができたのは本当にしあわせな時間だったけれど、わたしが知っていると思っていたことなんてほんの一握りにすぎないということに今更ながら気付いた。わたしはまだまだ、花井のことを知らないんだ。知らないことばかりなんだ。少し悲しくなるのとは違うこの気持ちをたいせつにしたい。だからこれから花井のこと、たくさん知っていきたいな。





「ありがとうございました、こんな時間まで」
「おれが言い出したことだし、いいって」
「でも楽しかったです、すごく」
「ははは…」

頭に手をやりながらはにかむ浜田さんにもう一度お礼を言う。花井はこんな人達に囲まれて野球をしているんだね。じゃあおれこっちだからと言う浜田さんに手を振って、駐輪場のほうへと歩いていく彼の後ろ姿を見送った。この時間になるとこんなに暗くなっちゃうんだ、野球部の練習はまだ終わってないのかな。

「…え?」

間抜けた声がして振り向くと、そこには自転車を押す花井が立っていた。隣には同じように自転車に跨がる水谷がいて、二人とも驚いた顔をしている。びっくりしたかなあ。うれしくって駆け寄れば、花井は暗闇の中で眉をきれいにひそめて困り顔をつくっていた。やっぱり勝手に待ってたこと、怒ってるのかも。怒られないとは思ってなかったよ、でもそんな気持ちより花井と一緒にいたい気持ちが勝っちゃったんだよ。緊張するなんておかしいかな、でもほんとうに緊張するんだよ。水谷にはちょっと悪いけど、今日はわたしに花井をゆずってね。

「あ、のね、待ってたの、花井のこと」
「…待ってたって、」
「一緒に帰っても、いい…かな」

花井のふたつの瞳がゆらりと揺れた。一瞬おおきな目を見開いた彼は、すぐに視線をわたしから外して自転車のハンドルを握り直す。いい、けど。素っ気ない、だけどわたしにはうれしい一言。小さな声でつぶやいた彼にありがとうと言うと、何故か隣の水谷がからからと笑った。邪魔者はいなくなりまあす。間延びした声でそう言い残した水谷は、わたし達二人に笑いかけてから早々に帰っていってしまった。初めてのふたりきりの帰り道。うれしいな、だってほんとうに初めてだから。

「あのばか」

そうこぼした花井の声が微かな照れを含んでいたから、わたしの胸はぎゅっと痛くなってしまってもう抑えられなくて、うれしくてうれしくて、思わず額を花井の二の腕の辺りにくっつけた。途端びくりと揺れた彼の肩にわたしも驚いて、我に帰る。わわわわたし、ばか、何してるの、ばか。ごっ、ごめん。慌てて花井から離れて謝れば、彼はそっぽを向いたまま、うん、と言って捲り上げたワイシャツの袖を更にぐいと上にあげた。照れ隠しだと勝手に解釈しても、いいかな。そうだったらうれしいな。

「…行こ、」

花井が焦りを隠せないまま自転車を押しはじめたから、わたしも頬の熱を隠せないまま、彼の後ろを追い掛けた。駆け足で隣に並んで、すぐそばにいる花井の表情を盗み見る。わたしと目が合うとほんのり染まった両頬ながら、ふわりと微笑んでみせた彼にわたしは溢れるこの気持ちを抑える術を知らなかった。花井のとなり。ずっとずっと、歩きたかった。一緒に帰って、今日あったことをお互い話して、笑って、それから別れを惜しんだりできたなら、どんなにうれしいだろうって、わたしずっと思ってたんだよ。花井のとなりを、歩きたかったんだよ。手を、繋ぎたかったんだよ。


こぼれちゃう

きみに掬って、欲しかった

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