キインという金属バットの高い音と、野球部の大きな掛け声をただ聞いていた昨日の放課後のことをぼんやりと思い出していた。窓側の一番後ろの席に座り、半分ほど窓を開けるとグラウンドの様々な音達が聞こえてくる。それらをただゆっくりとした時間のなかで聞いているのが好きだった。時々聞こえる同じクラスの花井くんの声を、こぼすことなく拾ってしまう自分の耳に少し呆れる。花井くんの姿を探す。見つけると少しうれしくなる。バスを待つまでの放課後の時間は、私にとってひそやかな楽しみだったのだ。

ただ今は、そんな私の空間を乱す一人の人が教室の前のドアの傍に立っているのだけど。ガラ、とドアの開く音がしたのでそこに視線を向ければ、そこには息を乱した花井くんが立っていた。肩で息をする彼は走ってここまで来たのだろうか、心なしか顔があかい。

「は、花井くん…?」

名前を呼べば、花井くんはほっとしたように頬を綻ばせて教室に足を踏み入れた。びっくりさせんなよ、そう言って笑った彼はそのまま自分の席まで歩いて行き、脇にかけてあった小さな袋を手に取る。

「弁当忘れたから、休憩の間に取りに来た」
「あ、そう、なんだ」
「おまえは?」
「わ、わたしっ?わたしは、バス待ってて」
「バス?へえ、いつもこんなに遅いわけ」
「うん、あっでももう時間だから帰るよ」

そうなの?花井くんは私のすぐ傍まで来て微かに首を傾げた。その仕種がすごく可愛くて、急に胸の奥がきゅんと音をあげたような気がして、なんだかとても恥ずかしくなってしまった私は慌てて机に広げっぱなしだった教科書とノートとペンケースを鞄の中に突っ込んだ。

私が帰り支度をするその少しの時間を、花井くんは隣で待ってくれていた。もしかして一緒に下まで行ってくれる、のかな。期待してしまってもいいのだろうか。薄暗い教室に少し感謝した、顔が赤いのを花井くんに見られずに済むから。鞄を肩にかけた時にちらりと彼の横顔を盗み見る。その時に花井くんの頬に泥のような砂のような汚れが付いているのが見えた。練習のときに付いたのかな、それともスライディングしたとき、とか?スカートの中にハンカチが入っているのを右手で確かめる。ほ、よかった。ちゃんと入ってる。

「あ、あの、花井くん」
「え、あ、はい」
「ちょっと屈んで、くれますか」
「……え」

教室を出ようとする彼の練習着の裾を思わず引っ張ってしまった。くん、と軽くつんのめった彼に慌ててごめんねと謝る。いいよ、と少し焦った声を出した花井くんは戸惑っているようだったから。余計に恥ずかしくなった私は早く終わらせてしまおうと握っている裾を更に引っ張った。

「こ、こう、?」
「んん、も、ちょっと」

手をのばす。屈んだ花井くんの頬にハンカチで触れる。斜め下に視線をさ迷わせている彼も、私と同じ気持ちだったらいいのにと思った。

「きれいになったよ」
「あ…、っと」
「あ!ご、ごめん!ほっぺに泥がついてて、それで…っ」
「いや、違くて。びっくりしただけだから」

顔に有り得ないくらい熱が集まってくる。花井くんが笑ってる、どうしよう。どうしよう、私、恥ずかしすぎて花井くんの顔が見れない。下を向いたまま彼の手を見つめる。胸がくるしい、誰かにぎゅっと握られているように心臓が痛い。

「ごめんな、ハンカチ汚して」
「ううん」
「洗って返すよ」
「えっ、え、あ!」

するりといとも簡単にハンカチを奪われてしまった私はただただ彼のことを目で追うばかりで、喉からは一つの言葉も出せなかった。黙りこくってしまった私に、行かねえの?と花井くんが不思議そうに振り返る。彼の表情に私の胸はくるしくなってしまって、やっぱりどうしようもない気持ちになった。いつも花井くんを見ていると言いたい。野球をしている花井くんはすごくかっこいいと、言いたい。


ちる覚悟がないなら飛べないよ

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