大学の三回生にもなると今の生活も随分慣れてきた。授業にも着いていけているし、サークルだって楽しくやっている。最初は男の一人暮らしなどどうなることかと思っていたけれど、案外ちゃんとやっていけている。ただ一つだけ足りないものがあるとするなら、それは恋愛だった。周りは同じ大学や合コンでの出会いで彼女ができたり、別れたり、また彼女ができたり。あるいは意中の女の子がいたり。女子に負けないくらい恋愛話が好きな男たちは浮ついた話で盛り上がり、話のネタがない俺はうんうんと相槌を打つことしかできなかった。
 しかし、本当のことを言うと、今俺には好きな人がいる。というより、忘れられない人がいるのだ。彼女とは俺が中学一年の時に出会った。宍戸さんの幼なじみだということで俺と知り合い、マネージャーではないけれど本当の後輩のように接してくれた。俺はいつのまにか彼女に惹かれていたのにずっと一緒にいたから気づかなくて、高校生になってやっと自分の気持ちに気づいた時にはもう遅かった。彼女には既に大切な人ができていたのだ。高校で出会った人らしいのだけれど、宍戸さんも認めるぐらいいい男だったらしい。喧嘩など滅多にすることもなく、彼女も幸せそうだった。だから俺は何も言わず、彼女の幸せを祈ることにしたのだ。
 それから今に至るまで結局諦められていないが俺はそれでもいい。大学に上がってから彼女が俺に一切連絡をくれなくなったって、別になんてことない。彼女のことを想うだけで俺は幸せだから。

 大学で一番気の許せると思っていた友人Aにこのことを言うと、「お前、重い」と言われたのでもう誰にも言わないことにした。宍戸さんにだって、彼女のことが好きかもしれないから、未だにこの想いは隠し続けている。

 そんな俺を哀れだと思ったのか、友人Aは合コンとやらに俺を誘ってくれた。あんなことを言っていたけれど、本当は俺のことをちゃんと考えてくれていたらしい。しかしその好意に反してあまり気乗りはせず、とりあえず行ってはみたものの、やはり俺の心を射止める女の子などいなかった。
 その帰りはもう先輩のことしか考えられなかった。隣でさっきの女の子の批評をしている友人たちの声をよそに、先輩の幻さえ見ていたほどだ。その先輩の幻は向こうの横断歩道を渡る前で、信号は青なのにずっとそこに佇んでいた。しばらくすると信号は赤になる。俺たちもその横断歩道の前で止まって、俺は先輩の幻の横顔を見つめていた。綺麗な横顔。だけどどこか憂いを帯びている伏せた睫…あれ、これ幻?

「先輩…?」

 顔を覗き見るようにして恐る恐る声を掛けてみると彼女ははっとしてこちらを向いた。長太郎。久しぶりに俺の名前を呼ぶ彼女の声を聞いて確信した、彼女は本物の先輩だ。

「こんな夜遅くに何やってるんですか?」
「まあ、ちょっと友達に会いに。長太郎こそ何やってたの?」
「友達と飲みに行ってたんです。といっても俺はあんまり飲んでないんですけどね。先輩はこれから帰るところですか?」
「うん。」
「じゃあせっかくなんで送りますよ。」
「え、い、いいよ!長太郎が帰り遅くなっちゃうし。それに私の家すぐそこだから心配ないよ。」
「すぐそこなら、俺もすぐに帰れるので大丈夫です。」

 にっこり笑って言えば、彼女は申し訳なさそうにじゃあお願いしようかなと言った。正直に言えば、先輩と一緒にいたいからという下心もある。だけどそれぐらいの下心を持ったって、何も迷惑がかかる訳じゃないんだからいいじゃないか。そう自分に言い聞かせて歩き出す。気づけばさっきまで一緒にいた友人たちはいなかった。空気を察してか先に帰ったみたいだ。

「先輩は、一人暮らしですか。」
「うん。」
「今四回ですよね。もう内定とかもらってるんですか?」
「まあね。」
「…あの彼氏とは、どうですか。」

 少し躊躇したが、気になることを素直に聞いてみた。上手くいってなければいいのに、別れていれば最高なのに、なんて思ってしまう自分が醜くて仕方ない。彼女の幸せを願う綺麗な自分はどこへ行ってしまったのだろう。だけど彼女の反応は俺の期待通り、あまりいいものではなかった。ぴたりと会話が途切れる。

「…さっき、別れてきた。」
「えっ!」
「って言っても、最近ほとんど連絡も取れてなかったんだけどね。あの人地方の大学に通ってるから、遠距離だったし。それで、まあ、なんとなくわかってたんだけど…他に好きな人ができて、浮気してたみたい。だから今日ちゃんと話をして、別れてきたの。」
「そんな、相談してくれれば、俺、」
「ごめんね。多分、意地張ってたかったんだ、私。ありがとう。」

 彼女の震えた声が静かな夜道に綺麗に響く。何て声をかけてあげればいいのかがわからず俺は黙ったまま彼女を見つめていた。
 ただその時の俺は辛い先輩に共感しているというよりも喜びに満ちていた。涙を堪える彼女を目の前に、俺は自分に降ってきた可能性にわくわくしている。なんて、なんて俺は醜いんだろう。自分を卑下するその心さえも次第に薄れてくるのがわかる。結局人間は自分が一番可愛くて、自分の欲望を満たしたくて、その本能に逆らうことなどできはしないのだ。そう考えると俺がこんな気持ちであることになんの不思議もなくなった。

「やけ酒するなら、付き合いますよ。愚痴を言う相手がいないとつまらないでしょう?」
「そんな、悪いよ。」
「いえ、ちょうど俺も飲み足りなかったんで。」

 そう言って通りかかったコンビニに入って酎ハイやら梅酒やらを何本か買った。ごめんねと言う彼女に俺はまた笑顔で大丈夫ですと言った。言いくるめられると拒否できないというところは昔から変わっていない。
 結局俺は酒を口実に一人暮らしの彼女の部屋へまんまとあがることができた訳だが、もっと我が儘を言えば、その後酔った彼女とどうにかなればどんなにいいことだろうと思った。そんな下心に埋め尽くされた俺はやはり醜い。良い人だなんだと言われている俺も、所詮ただの人間にすぎなかったらしい。

100509