この学校には無類の女好きがいると聞く。可愛い女を見れば必ず声を掛け、甘い言葉で口説き、何人もの女と同時にお付き合いをして、何人もの女に頬をはたかれる。そんな人が現実に存在する訳がない。もし居たとしたらその人は人の道から外れている。そう思っていたのだが、実際その人は存在した。
 先日、私の友人の一人が声を掛けられて一つ年上の男と付き合い始めたというのを聞いた。その相手の男は学校では女好きで有名らしく、周りの女の子が皆口々にやめた方がいいと言っていた。それでも当の本人は私だけって言ってくれたもん、と口を膨らませて友人たちの忠告を素直に聞かなかった。
 それを彼女が後悔したのはほんの二、三日後のこと。彼女が男と手を繋ぎながら歩いていると、突然凄い剣幕の女が目の前に現れてこの浮気者と男の頬を思い切りひっぱたいて去って行ったのだと言う。そんなことがもう一回起こり、他にはあれ前の子はどうしたのなどと言われ、目が覚めたと彼女は言っていた。数日前の幸せそうな彼女とはまるで違う人間のようだった。
 私はその時初めてそんな人がいるということを知った。千石清純という、テニスが上手で容姿も良い三年生なんだそうだ。そんな最低な男もいるんだなあ、と思いながら歩いていると、まさにその最低な男に声を掛けられた。

「君可愛いね!何年生?名前何てゆうの?」

 確かに近くで見るとますます良い男で、この男に騙される女の気持ちもわからないでもない気がする。しかし中身が良くないのならいくら顔が良くても私的には論外だ。

「すみません急いでるんで。」
「あ、ごめん怒った?そうだよね俺から名乗らなくちゃ失礼だよね。俺の名前は、」
「千石清純さん、ですよね。」
「ええ、知ってくれてるの!嬉しいなあ。」
「有名ですから。」

 皮肉のつもりでそう言うと、彼はまた笑って喜んでいた。きっと真意は伝わっている筈だから、気づかない振りをしているのだろう。少し腹立たしかったのではっきり言ってやった。

「悪い噂で」

 すると一瞬ぎくっという音が聞こえそうな驚き方をしたのでその隙に逃げてきた。ざまあみろ。私はお前なんかに引っかかってやるほどお人好しではない。と少し勝ち誇ったような気分で歩いていると同じクラスの女子に声をかけられた。近くにいたら話をするくらいの、その場凌ぎで見かけだけの友人の一人。加えて、先日例の女の子に千石清純はやめておけと言っていた内の一人でもある。

「今千石さんに声掛けられてたよね。」
「うん、想像以上に鬱陶しい人だったよ。」
「でも羨ましいなあ、私も声掛けられたい。」

 あれ、この前千石清純はやめとけとか言ってなかったっけ。聞くと、「だってあの子千石さんと付き合ってるってこと自慢気に話してくるんだもん。ちょっとむかついてさ。みんなそうだよ。その前から千石さんとメールしてるって子も何人かいるし。」という答えが返ってきた。どうやら対千石派だと思っていたあの群れは殆どが口先だけらしい。浅い友情ほど信用できないものはないといっても過言ではなさそうだ。
 しかし何人もの女と付き合っている男の何番目かも分からない彼女になるのはそんなに羨むほどのことであろうか。寧ろ惨めだと思うのだけれど。

 それから数日後に千石清純は私の教室に姿を現した。メールのやり取りをしている女の子に会いに来たらしい。やはりクラスの女子たちは批判的な態度を取らず、逆にピンク色のオーラを漂わせて千石清純を見ている。先日の例の女の子も悲しそうな目で千石清純を一瞬見つめ、それからはずっと俯いていた。みんなの前ではあんな男最低だと散々愚痴を零していたのに実は未練たらたららしい。この学校の女の子はみんな千石清純に洗脳されている。呆れた私は次の授業の小テストのために単語帳を開いた。

「あれ、君はこの前の!」

 そんな声が聞こえたかと思ったら、千石清純と話していた女子が私の名前を呼んだ。声がした廊下側に顔を向けると千石清純はへらへらと笑いながらこっちに手を振っている。取りあえず軽く頭を下げてすぐに机の上へ視線を戻すと君も一緒にお話しようよと言ってきた。隣にいる女の子もおいでよと笑顔で待ち構えているが、目は二人で話したいから気を遣って控えてくれと物語っている。もちろんそんなことを言われるまでもなく、私は丁重にお断りしておいた。浅い友情とはいえ一応友人の前なので愛想笑いも加えて。
 その後千石清純は私を見かける度に話し掛けてくるようになったので私は毎回逃げ続けた。しかし最後まで順調には進まないらしい。

 ある日の体育の授業で、酷い生理痛に耐えきれなくなった私は保健室で寝ることにした。痛み止めを飲むのは嫌いだと言うと、女の体育の先生はそれなら仕方がないと保健室で休むことを許可してくれた。
 人気のない廊下を歩いて保健室に辿り着いたのだが、丁度保健の先生が今から用事で保健室を空けるというところだった。少し休むだけなら先生はいなくても大丈夫だということで無人の保健室を一人で使えることになった。と言っても寝るだけなのだけれど。次の休憩時間には戻ってくるからねと言う先生を見送って、ベッドに向かった。先生が戻るまでに三十分以上もあるから誰かが来ても構わないようにしておこうとカーテンを閉めようとした時、入り口の引き戸ががらっと開いた。そこに居た人と運悪く目が合って、さらに悪いことにその人は千石清純だった。ゆっくりドアを閉めながらにこにこと愛想のいい笑顔を向けてくる。

「やっぱり君か。教室から君が見えたからさあ。」
「要するにさぼりですか。」
「違うよ。ちゃんと保健室に来るべき理由があって来たんだから。」
「どこか具合でも悪いんですか。」
「うん、君を見てると胸が苦しくなって。なんていうのかな、こう、胸がきゅって締め付けられるような感覚。」
「胸焼けじゃないですか。何か油っこいもの食べたんですか。」
「違うってばー!恥ずかしがり屋さんだなあ、もう。」
「じゃあ私は体調が戻ったので失礼します。」
「まだ凄く辛そうな顔してるよ?」
「気のせいです、失礼します。先生は次の休憩まで戻ってこないみたいなんでどうぞご自由にお使いください。」

 もちろん体調が回復している訳もなかったが、この男と二人でいるより体育の授業を見学しているほうがまだ気分も優れるだろう。待ってよと言う千石清純の横を通り過ぎてドアに手を掛けるが開かなかった。中から鍵が掛かっているらしい。いつの間にと思いながらもその鍵を開けようとしたところで後ろから腕を掴まれ、くるっと向きを変えられた。顔が目の前にあって、おそらくキスをされるのだと思った。後ろは壁だから逃げられない。咄嗟に左へ顔を背けると右側の首筋にちくっとした痛みが走ったので、小さく短い呻き声が漏れてしまった。

「いいね、その顔。」

 見ると男は心底楽しそうに笑っている。ちらりと口から覗く歯には私のものだと思われる赤い血。気持ち悪いというよりも、正直怖い。震える声で私は言った。どういうつもりですかと。

「俺にあんなあからさまに嫌な態度を取る女の子は君が初めてだったんだよね。だから悔しくて。君みたいな子を痛めつけたらどんなに面白いだろうって思ったんだ。だけど、予想以上に興奮しちゃった。だからもっと痛がってる姿、俺に見せてよ」

 この男は相当狂っている。無類の女好きと噂の男はそれ以上に最低な男で、ますます人の道から外れている男であった。これでも女の子たちはこの男と付き合いたいと思うのだろうかとぼんやり思いながらただただ茫然としている私を見て、男はさらに楽しそうににんまりと笑った。


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