その日は朝からおかしいことばかりだった。


「名前」
「ん、なに?」
「どこに行くつもりだ」
「やだなあ、どこにも行かないよ」


 おかしそうに笑った名前は、手に持っていたここ一帯の地形が載った本を静かに閉じた。そしてその本を僕から隠すかのように自分の脇に置いて、視線を外に移す。僕はじっと名前を見下ろしていたけど、名前はこの視線に気づいているくせに、何も言わない。「五年生の先輩方、今から外に出るようだよ。実習かな」なんて言って、僕の方を見ようともしない。今の僕を占めているのは、怒りではなく、不安だった。


「…名前」
「三木、座ったら?もうすぐ先生が来るよ」
「名前、僕に隠し事していないか」
「ええ、どうかな。たくさんあるかも」
「………」


 やっとこちらを見た名前は、机に頬杖をついてへらへらと笑っている。いつもと同じようで何かが違うそれに、隠しきれない不安が僕の表情を曇らせた。何故不安なのかはよくわからないが、何かが違うんだ。名前の表情、振る舞い、言動、全てがいつもとは少しだけちがって、その小さなずれが違和感を生み出している。名前が自ら本を読んだり、僕に向ける笑顔が全部作り笑顔だったり、僕が起こしに行く前に起きて、しかもすでに制服に着替えていたり、部屋には任務の後にしか焚かないはずの白梅の香が焚かれていたり、上げればきりがないくらい、今日の名前はおかしかった。だけど、それをいちいち指摘しても返ってくる答えは、「そうかな。まあ、たまにはね」と曖昧なものばかりで、何も掴めなかった。だけど名前が何かを隠していることは確かで、でもそれを踏みこんで問いただしたところで、名前が絶対に口を開かないことは、この四年で痛いほど知っている。だから僕たちは名前が話してくれるまで待つしかない。今まではそれでいいと思っていたのは、名前が僕たちを特別に大切にしてくれていることを実感していたからだ。今だって名前を信用していないわけではない。だけど、不安なんだ。名前は綾さんと同じだから、いつか僕たちの前から消えてしまうのではないかって。
 名前の隣に腰をおろして、じっとその表情を窺う。名前は困ったように笑うだけで、何も言わない。僕の声は、わずかに震えていた。


「名前、もう勝手にいなくならないよな」
「急にどうしたの」
「いいから、約束してくれ」
「勝手にいなくならないって?」
「ああ」
「…いいよ、約束する。私は勝手にいなくなったりしない。これでいい?」
「…約束だぞ」
「変な三木」


 ふふ、と楽しそうに笑った名前がふいに視線を前に向ける。それと同時に鐘が鳴り、先生が教室に入ってきた。いつものようにやる気のない顔をして、窓の外に視線を向けた名前の様子を窺いながら、僕は消えるどころか余計に増した不安に気付かないふりをして、いつも通りを装った。


 委員会が終わって自室に戻り、戸の隙間に挟まっていた紙に気付いた瞬間、ぞわりと嫌な予感が湧きあがった。僕は名前の部屋に駆け込む。戸を開ければ、そこには当然のように名前はいなくて、それどころか、始めから誰もいなかったかのように綺麗で。僕は名前の面影を探すように押入を勢いよく開ける。でもそこには綺麗に畳まれた制服と黒い忍装束だけがあるだけで、他には何もなかった。僕たちがみんなであげた白梅の香も、何も。僕はそのまま崩れ落ちて、静かに涙を流した。白梅の匂いさえ残っていない名前の部屋は、ただひたすら冷たい。
 握り締めて、しわくちゃになった紙には、確かに名前の字で、ごめん、とだけ書かれていた。

 約束したじゃないか、名前。









130214