名前先輩と天女さまが寄り添っている光景を、最近よく見るようになった。特別な会話なんてしていないのに、二人の表情はすごく穏やかで、しあわせそうで、俺はいつもその光景を見るたびに、言葉にしようがないくらいの怒りを感じる。天女さまにべったりだった先輩たちが俺たちの元へ戻ってきたのと引き換えに、名前先輩が天女さまにべったりになった。俺たちが声をかければ、必ず足を止めて、前と同じように笑ってくれるけど、その隣には必ず天女さまがいる。さらには俺たちよりも天女さまを優先することもある。どうして?、なんて聞けなくて、今日も天女さまと笑いあう名前先輩の背中を追っていた。


「きりちゃん」
「なに?」
「怖い顔してるよ」
「だから?」
「…私、部屋に戻ってるね」


 感情を隠すことができず、とげとげとした俺の言葉に、乱太郎が悲しそうな顔をして、一年長屋の方に歩いていってしまった。乱太郎を傷つけるつもりなんてなかったのに。罪悪感でいっぱいになって、小さく舌打ちをしてみる。どうしてこんなことになってしまったのだろう。名前先輩は、何があってもずっと俺たちに味方だと思っていた。名前先輩は勉強はできないけど、頭がいいから、きっとこれだって何か意味があるんだとわかっているはずだけど、それを許せるほど、俺は大人じゃない。返せよ、名前先輩を。俺たちのところに返せよ。
 廊下の端っこから、校庭の隅で話をしている二人の姿を睨みつける。ふと、視界が揺れる。柔らかく微笑む名前先輩の体が透けて、紫の忍装束が向こう側の壁の白でぼやけている。それを見た瞬間、俺は考えるよりも早く、名前先輩のところに走り出していた。


「おや、きり。そんなに急いで、何かあったの?」
「っ、名前先輩!」
「え、何?私がどうかした?」
「今すぐこの人から離れてっ!」


 勢いよく飛び込んだ俺の体を受け止め、優しく抱き締めてくれる名前先輩に安心したけど、おろおろとした様子の天女さまが視界に入りこんだ瞬間、俺は噛みつくように言葉をぶつけていた。不思議そうに、困ったように首を傾げた名前先輩の腕の中で、一生懸命名前先輩の体を天女さまから離す。困惑しながら少しだけ離れてくれた名前先輩が、「きり、意味がわからないよ」と言いながら俺の頭を撫でる。でもそんなの関係なくて、俺は天女さまを必死に睨みつけた。今にも泣きそうな天女さまを見た名前先輩が窘めるように俺の名前を呼んでも、俺の腕を離そうとしても、俺は絶対に離そうとしなかった。このままじゃ、名前先輩が消えてしまう。現実味のない確信が、俺の頭をいっぱいにしていた。


「きり、きり丸、落ち着いて。どうしていきなりそんなことを言いだしたの」
「さっき、名前先輩の体が透けてたんだ!天女さまのそばにいるから、天女さまが名前先輩のこと連れていこうとしてるからだよ!このまま一緒にいたら、名前先輩がいなくなっちゃう…!」


 途端、名前先輩が驚いたように目を見開いた。気づいたら泣いていた俺は、下手くそにひゃくり上げながら、名前先輩が消えてしまわないように、名前先輩の忍装束を力いっぱい握りしめた。何かを考えている名前先輩の名前を、天女さまが小さく小さく呼んだ。はっ、として顔を上げた名前先輩の視線が天女さまに向く。それにつられて俺も天女さまを見れば、酷く動揺した様子の天女さまがいた。それがどうしても演技のように見えた俺は、涙でいっぱいになった天女さまを睨みつけた。びくっ、と肩を竦めた天女さまから、名前先輩を守るように、俺は言葉を吐きだす。


「お前が来なければ良かったんだ!誰ひとり余計な悲しい思いをしなくて済んだのに、お前が来たせいで、全部全部おかしくなったんだ!」
「きり!」
「名前先輩を俺たちから奪うな!お前なんか、いなければ良かったのに!」


 かっ、と頭に血が上った俺には、名前先輩の制止の声なんて聞こえなかった。天女さまの大きな目からぼろっ、と涙がこぼれ落ちて、玉のような頬を伝って、土を濡らした。名前先輩がおれの手を優しく、確実に払って、名前先輩が天女さまをその腕で抱き締める。その優しい声が慰めるように天女さまの名前を紡いでいる。行き場をなくした俺の手は、静かに空を切った。息が、上手くできない。


「わたしだって、わたしだってこんな世界に来たくなかった。もう生きていたくなかった。この世界の人はみんな優しくて、名前を呼んでくれたから舞い上がってたの。ここでは生きていいって言ってもらえるかもって。でも結局それは全部嘘で、これは全部夢で、作り物で、みんなみんな嘘ばっかり吐いて、何をしても褒められて、守られて、それがすごく気持ち悪くて、だって、おかしいよ。どうしてみんなわたしを好きって言うの?すぐに嫌いって言うの?何も知らないくせに。わたしの何も、見ようとしないくせに…!」
「うん、そうだね、綾さん、今までいっぱい我慢してきたね。頑張ったね。あと少しだから、あとはしあわせになるだけだよ。綾さん、貴方ならきっと大丈夫だから、ね」
「名前くん、名前くん、こんな世界おかしいよ。名前くんも早く、」
「大丈夫、綾さん。私の心配なんて、しなくていいよ」


 名前先輩の優しい声が天女さまの嗚咽に混ざる。天女さまの言っていることの意味が俺には全然わからなくて、ただただその隣に立ち尽くすことしかできなかった。名前先輩が俺を見下ろして、困ったように微笑んだ。「ごめんね、」と音を発することなく口が動く。俺は長屋の方に走り出した。名前先輩は追ってこなかった。
 空き部屋で泣いていた俺を見つけ出した名前先輩が、ひとつの話をしてくれた。名前先輩の、今までの話を。







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