一見元に戻ったように見えるこの学園だけど、ふたを開ければその中身は不安と混乱、怒りといった負の感情が入り混ざり、何と居心地の悪いことか。数日前の予算会議で行動に移した私たちの作戦は、成功だったとも失敗だったともいえる。
 黒木曰く「鉢屋先輩と尾浜先輩は僕たちと顔が合わせづらいようで、委員会中もなかなか顔を上げてくれません」。タカ丸さん曰く「兵助くんはなんだかとってもつらそうだねえ」。虎若曰く「竹谷先輩が戻ってきてくれたのは嬉しいんですけど、伊賀崎先輩が竹谷先輩の顔も見たくないって言ってて…」。三木ヱ門曰く「潮江先輩が名前のこと会計委員会に欲しいって言いだしてめんどくさい…」。喜八郎曰く「立花先輩が酷く悔しそうな顔をしていたよ。名前、刺されないように気を付けてね」。滝夜叉丸曰く「七松先輩も立花先輩とそう変わらない。大きすぎる後悔を自分で処理できないのだろう」。きり曰く「不破先輩、いつも泣きそうな顔してるんだ。俺たちは何も気にしてないって言ってるのに」。富松曰く「うちは大丈夫です。一年たちも食満先輩が帰ってきてくれて嬉しそうですよ」。
 さて、これからどうしようか、と隣でジュンコの頭を撫でている伊賀崎に視線を移す。その表情はやわらかく、依然と何も変わっていないように見えるけど、これが他の上級生の前になった途端に固まるのだから、困ったものだ。


「伊賀崎、委員会に行かなくていいの?」
「竹谷先輩が来るのなら、僕は委員会に行きません」
「…許す気は、ないんだね」
「はい」


 はっきりと言いきった伊賀崎の目に迷いはないように見える。私はため息を吐きたくなって、慌ててそれを飲み込んだ。いつものように縁側の柱に寄りかかって、赤みがかった空を眺める。耳を澄ませば、あちらこちらで委員会活動をする声が聞こえてくる。私だって本当は委員会があるのだけど、生物小屋とはまったく反対の方向へと向かう伊賀崎を見かけてしまって、放っておくこともできず、結果的にさぼることになってしまった。善法寺先輩には後でちゃんと説明すれば怒られないからいいのだけど。
 伊賀崎は、生物委員会でちゃんと世話できないなら生物を始末してしまえ、と言われたあの日から、綾さんに傾倒していた上級生に対して酷い不信感を抱いてしまっている。私以外の上級生とは話そうとしないし、隙あらば毒虫を仕掛けようとする。しかもその恨みは綾さんにも向いていて、私は毎日はらはらしていなければならなくなった。綾さんは何も悪くないと説明しても、「そもそもあの人が学園に落ちてこなければ、何も起きなかったはずです」と言って、聞いてはくれない。困った。頭を抱える私の隣で、伊賀崎は静かに地面を見つめている。このあどけない顔の裏で、この子は何を考えているのだろう。私はもう一度空に視線を投げた。


「名前先輩は、間違っていると思いますか」
「間違っているかどうかは他人が決めることじゃないよ。伊賀崎が正しいと思うことを信じればいい」
「…でも、僕以外のみんなは先輩方を許して、始めから何もなかったかのように日常に戻っているんですよ?」
「それでも伊賀崎が許せないと思うなら、許さなくてもいいんじゃないかな」
「…名前先輩が僕だったら、竹谷先輩を許しますか?」


 伊賀崎は視線を落としていた視線を私に向けて、小さく呟いた。随分難しいことを聞く子だ。私はゆるり、と微笑んで、伊賀崎の視線に応える。目は口ほどに物を言う、とは良く云ったものだ。伊賀崎の目はぐらぐらと揺れていた。ひとり、というものは人を一等不安にさせる。自分の選択が間違っていたのではないか、正しいのはあちらではないのか。伊賀崎は悩んでいる。そして、それは許す方へ傾きかけている。今回の天女騒動で伊賀崎が受けた傷は、おそらくこの学園の誰よりも大きい。私が伊賀崎の立場だったら、先輩方を許さない選択をしただろうし、それだけでは済ませられないだろう。私はもともと気性が荒い。でもこの子はまだ竹谷先輩を信じていたい気持ちが残っているのだろう。伊賀崎は今、私に背を押してもらいたいのだ。許してもいいのだ、と確認したいのだ。
 私は伊賀崎の頭に手を置いて、ぽんぽんと撫でる。さっきまで強張っていた表情がわずかに緩み、安心したように微笑んだ。わたしも、と撫でてほしそうに頭をもたげたジュンコを撫で、私は再び柱に背を預けた。


「私と伊賀崎は違うからねえ」
「それでもいいです。教えてください」
「ふふ、だめだよ、伊賀崎」
「え…」
「だってもう伊賀崎の中で答えは出ているだろ。それを私の言葉で変えたくはないよ」
「じゃあ竹谷先輩のことを許さない方が、」
「それが、本当の気持ちだったらね」


 途端に伊賀崎の表情が暗くなる。ほら、伊賀崎は気づいている。ちゃんと自分の気持ちに気付いているから、私はもう何も言うことはない。私は静かに空を眺めた。
 私は優しくない。優しいふりをしているだけで、決して優しくはないのだ。本当に優しいのは、伊賀崎のような子だ。それでも私は、この子たちにしあわせになってほしいと願っている。


「どちらを選んでも、私は伊賀崎を否定しないよ」


 ジュンコが心配そうに伊賀崎の顔を覗き込むのを、私は見ないふりをして目を伏せた。







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