たったあれだけのことで解決するようなことなら、最初から困っていない。今回のことで、深い深い溝ができてしまった人たちをどうやって緩和するか。うまく元通りになることなんて期待していなかったから、別にいいのだけど。だけどこれは、少し面倒なことになった。こんなことになるなら、もっと行動を控えればよかったかもしれない。ううん、面倒だけど、今の状況で動ける人は限られているし、先生方にも頼まれてしまったし、やるしかない。やるしかないのだ。それに、できれば誰も泣かずに済む場所が欲しかったのは誰だ。他でもない、自分自身。今やらずに後悔するより、やって後悔した方がいいと、どこかの誰かが言っていただろう。
 巻物や本が散らかった部屋でひとつため息を吐く。外からは学園内で遊ぶ後輩たちの声に加え、先輩方の声も聞こえる。ずっと同じ体勢でいた身体を伸ばすと、肩や腰が痛んだ。
 さて、と。


「…どこかに行くの?」


 随分と安心しきった顔ですやすやと眠っていた彼女がふと目を覚まし、身体を起こした。じっとこちらを窺うように見つめるその目は酷く不安定で、苦しそうだ。寒そうに身体を縮めていたからかけてやった布団をずるずると引きづり、こちらへ近寄ってきた彼女は、空いていた半身にぴたりと身体を寄せる。装束をぎゅ、と握られる感覚がして、思わず笑みがこぼれる。彼女はそれに不満そうな顔をして、だけど装束を掴む手は離さない。頭を軽く撫でると、さっきよりもわずかだが表情が和らいだ。


「みんなのところへ行こうかと思いまして」
「…行かないでって言ったら、怒る?」
「怒りはしないですよ。でも、そのお願いは聞けません」
「………」
「そんな顔しても駄目です」


 唇を尖らせて拗ねる彼女に困ったような笑みがこぼれる。さらさらと肩から滑り落ちていく綺麗な髪に指を通して遊んでいると、彼女は眠たそうに小さな欠伸を漏らした。夜が眠れないのだと泣いてこの部屋の戸を叩くことも最初に比べれば随分と減ったけど、それでもまだ彼女はきちんと眠れていないのだろう。少し音をたてただけで目が覚めてしまうほど浅い眠りを繰り返す彼女が、唯一安心して眠れるというこの場所を必要とするのも、あと少し。


「眠いなら寝てください。寝るまでここにいますから」
「ん、大丈夫。もうすぐ仕事の時間だし」
「まだ時間ありますよ」
「起きていたいの」


 頑なに拒否する彼女を無理に寝かすこともないだろう、と思い、ずるずると胡坐をかく膝の上に頭を乗せて、こちらを眠そうに見上げてくる彼女に布団をかけてやる。その布団の中からもぞもぞと手を出して、こちらに伸ばしてきたので、それを緩く握る。細くて繊細な指を絡ませ、ほっ、と安心したように息を吐いた彼女は、やっぱり眠そうだ。すっかり癖になっている笑顔を浮かべて、彼女を見下ろせば、酷く綺麗な頬笑みを返された。


「もうすぐですね」
「…そうだね」
「不安ですか」
「もちろん」
「怖いですか」
「当たり前でしょ」
「私には、祈ることしかできません。貴方の無事を知る術もありません」
「…うん」
「私が貴方にできることは何もありません」
「…名前くんが、最後までそばにいてくれるなら、それだけでいいよ」
「約束は守ります。私は最後まで、貴方の味方です」


 そう言った私に彼女、綾さんは悲しそうに笑って、私と繋がれた手で目元を覆う。泣きたい、と全身が訴えているのに、それでも泣かない彼女に私がしてやれることは、本当に何もないのだ。それを思い知るたびに、私はひとり目を伏せた。

 どうか誰も彼女を苦しめないで。









121008